伝記
ヴィトルド・ゴンブローヴィッチは、1904年8月4日、当時ロシア帝国領だったポーランドのオパトゥフ近郊のマウォシツェに、裕福な地主貴族の家の四人きょうだいの末子として生まれたポーランドの小説家・劇作家である。父はヤン・オヌフリ、母はアントニナである。自伝的な文章で、家は四百年にわたってリトアニアのヴィルニュスとカウナスの間の領地に暮らしたが、祖父が1863年の一月蜂起に加わったとして告発され、土地を追われたと書いている。のちに、こうした出自と身分を、生涯続く「あいだ」にいる感覚の最初の例として語った。1911年に一家はワルシャワへ移り、聖スタニスワフ・コストカのギムナジウムを1922年に終えた。ワルシャワ大学で法律を学び、1927年に法学修士号を得た。
その後パリに一年滞在して国際高等研究院に通った。勉強はあまり熱心でなかったが、フランスで若い知識人たちと絶えず接した。地中海にも足を延ばしている。帰国後は法律関係の職を求めたが、うまくいかなかった。1920年代から書き始めたものの、最初の長編は退け、友人との合作による大衆小説の試みも失敗した。1920年代末から30年代初めにかけて短編を書き、のちに『成熟期の日記』の題で出版されたが、これは後年、亡命中に住んだ通りの名にちなむ『バカカイ』と改題された。1933年にはこの本で文壇にデビューした。以後は新聞に批評やコラムを書き、ワルシャワの文学カフェで若い作家たちと交流した。1935年に戯曲『ブルグント公女イヴォナ』を、1937年に最初の長編小説『フェルディドゥルケ』を発表し、文壇で評価を得た。この作品には、未成熟や青春の問題、他者との関係におけるアイデンティティの形成、ポーランド社会の階級的役割に対する皮肉な批判という、彼が繰り返し扱う主題が現れている。
1939年、第二次世界大戦の直前に、ポーランドの大西洋航路の客船「フロブリ号」の処女航海に乗って南米へ向かった。ブエノスアイレスに着いて七日後に祖国へナチス軍が侵攻し、戦争が終わるまで同地で待つことにした。1941年に公使館に出頭したが、軍務には不適格とされた。以後1963年までアルゼンチンにとどまり、とくに戦時中はしばしば貧しい暮らしを送った。1940年代の終わりには、友人たちの助けを得て1947年に『フェルディドゥルケ』のスペイン語訳を出したが、当時はさしたる名声をもたらさなかった。1947年12月から1955年5月までは、ポーランド銀行のアルゼンチン支店で事務員として働いた。1951年からパリの雑誌に寄稿を始め、1953年に『日記』の断片が載り、同じ年に長編『トランス=アトランティック』を含む一冊を刊行して、亡命先での国民的アイデンティティの問題を論争的に扱った。1956年10月以降、彼の本はポーランドでも四冊が出て、大きな名声をもたらした。
1960年代には世界的に認められ、『ポルノグラフィア』や『コスモス』など多くの作品が翻訳され、戯曲は特にフランス、ドイツ、スウェーデンなどで上演された。フォード財団の奨学金を得てヨーロッパに戻り、1963年にドイツに移住した。のちにフランスに移り、1969年7月24日、フランスで死去した。1966年から1969年までの間に、ノーベル文学賞に四度、候補に挙がった。生前の名声は晩年に限られたが、今ではポーランド文学を代表する一人とみなされ、1969年に刊行された日記は代表作といわれる。
同じ年に亡くなった人物
- カール・ヤスパース (1969年没)
- ジミー・マクヒュー (1969年没)
- 植芝盛平 (1969年没)
- Margarida Xirgu (1969年没)
- フィリップ・オクチャーブリスキー (1969年没)
同じ地域に関係する人物
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