伝記
ピエロ・デラ・フランチェスカは、初期イタリア・ルネサンスを代表する画家である。トスカーナ地方のアレッツォ近郊の山間の町ボルゴ・サンセポルクロに生まれ、没したのも同地の1492年10月12日である。生年ははっきりしない。町の役場の記録が火災で失われたためで、1406年から1420年のあいだとされ、1412年ともいわれる。ヴァザーリは死去時に86歳だったと書いたが、両親の結婚が1413年であることから、この説は誤りと考えられている。
家は商人の家系で、父はベネデット・デ・フランチェスキ、母はウンブリアの貴族の出のロマーナ・ディ・ペリーノ・ダ・モンテルキとされる。父の職業は、靴職人とも裕福な織物商ともいわれる。数学や算術を身につけたのは商家に育ったためだと説明される。故郷は国境地帯で、15世紀半ばにリミニ、フィレンツェ共和国、教皇領へと支配者が移り、フィレンツェ、シエナ、ウンブリアの影響が交わる土地だったという。ピエロは長男で、ほかに兄弟が4人、姉妹が1人いた。死の少し前から「デラ・フランチェスカ」と呼ばれるようになったが、母の姓を取ったというヴァザーリの推測は受け入れがたいとされる。
画家としての修業は、家業の手伝いを経て、郷里の画家アントーニオ・ダンギアーリのもとで1430年代までに終えたとされる。1430年5月27日には、町の城壁の門の上に掲げるコムーネと教皇政府の紋章入りの旗や幟を描いた報酬の支払い記録が残る。1432年から1436年にかけてはダンギアーリと協力し、1436年10月8日の遺言書に証人として名が見える。1438年にも同地で記録があり、ダンギアーリの助手の一人として名が挙がる。サン・フランチェスコ聖堂の祭壇画の依頼はまず彼に託されたが、のちに制作したのはサセッタであった。ここから、そのころ少なくとも20歳にはなっていたと推測される。1439年にはフィレンツェで確認され、9月7日の記録に、ドメニコ・ヴェネツィアーノの助手として聖母伝のフレスコ画連作に関わったとある。この連作は現存しない。フィレンツェではフラ・アンジェリコとも知り合ったとされ、そのころマザッチョが世を去って約10年がたっていた。以後は北・中部イタリア各地で仕事をした巡歴の画家であり、生涯の大半を郷里とその周辺で過ごした。
代表作の『キリストの洗礼』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)は、明瞭簡潔な画面構成と単純明快な形、明るい色彩を特徴とし、サンセポルクロ周辺の風景が写実的に描かれて、見る者に戸外にいるような感覚を抱かせると評される。『キリストの鞭打ち』は、鞭打たれるキリストを左奥に押しやり、右手前の3人の人物を大きく描いたことで知られ、その意味には諸説がある。ウルビーノ公を真横から描いた肖像画も名高い。バチカン宮殿のフレスコ画は、のちにラファエロの絵に置き換えられて失われた。
彼は数学と幾何学に最も徹底して打ち込んだ画家の一人で、1470年ごろからはそうした研究に集中した。晩年に『算術論』『遠近法論』『五正多面体論』の3冊を残し、いずれもラテン語ではなく俗語で書かれ、人文主義的関心は薄く、職人的な実用性が強い。当時は幾何学者・数学者、遠近法の達人としても知られたが、現在はとくにフレスコ画の名手として評価される。メディチ家のために働くことはなく、フィレンツェに滞在した期間も短かった。巨匠としての再評価が進んだのは20世紀になってからだといわれる。
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