伝記
マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、第16代ローマ皇帝であり、五賢帝の最後の一人である。121年4月26日に生まれ、180年3月17日に没した。先帝アントニヌス・ピウスの妃ファウスティナ・マイヨルの甥にあたる。ストア哲学に通じ、軍事よりも学問を好んだ皇帝として知られ、著書『自省録』は、プラトンの時代から学識者が理想とした哲人君主の実現例と見なされている。
生まれはローマで、本名はマルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルスという。父方のウェルス家はヒスパニア・バエティカのコルドバに所領を持つ家で、曽祖父が元老院議員となり、祖父の代で貴族に列せられた。父アンニウス・ウェルス3世は法務官などを務めたが、三歳のときに病没した。母ドミティア・ルキッラは再婚せず、資産家の家に生まれて父母の財産を相続し、ウェルス家をさらに富ませた。少年は祖父に引き取られ、家庭教師のもとで学び、宗教的な敬虔さと粗食を躾として教えられたという。哲学者のような衣服を着て地面で寝る暮らしを始め、母にたしなめられたこともあるとされる。127年、六歳のときにハドリアヌス帝の推薦で騎士名簿に登録された。規定を満たさない彼のために入学規則が改められ、サリイという聖職者の学校にも進んだ。ハドリアヌスは彼を寵愛し、ウェリッシムスの渾名で呼んだ。教師では哲学者ディオゲネトゥスに深い影響を受け、ホメロス研究で知られたアレクサンデルからは修辞法を学び、その影響は『自省録』の文体に見られる。
138年、ハドリアヌスの後継者に指名されたアントニヌスは、妻の甥である彼を養子とするよう定められた。本人は突然の養子縁組に愕然としたと伝わる。18歳で財務官となったが、これは就任年齢の規定から特例で除外された結果であった。138年7月10日にハドリアヌスが病没すると、アントニヌスは元老院を尊重して安定した帝位継承を果たし、慈悲深きアントニヌスを意味するピウスの渾名で呼ばれた。そして養父の娘で従姉妹のファウスティナ・ミノルと結婚した。140年には養父とともに執政官に就き、副帝の称号を受けた。宮殿での華やかな暮らしを促されたが、貴族の退廃に染まらず、ストア哲学に基づく禁欲と自省を望んだという。ストア派の哲学者アポロニウスとの出会いは、その禁欲的な生き方に大きな影響を与えた。姉コルニフィキアが結婚する際には、父の遺産のすべてを姉に譲ったと伝わる。
帝位は、共同皇帝に立てられたルキウス・ウェルスとともに継いだ。長女をウェルスに嫁がせて二人の皇帝の結束を固めたが、169年にウェルスが亡くなり、単独の皇帝となった。対外政策では、パルティアとの戦争に勝利した。一方、蛮族への予防戦争として始めたマルコマンニ人、クアディ人、サルマティア人などへの遠征、いわゆるマルコマンニ戦争は長期戦となり、国力を疲弊させた。彼自身も陣中で崩御した。
国をよく治めたとして、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスと並ぶ五賢帝の一人と評価される。『後漢書』に見える大秦国王の安敦は彼のことだとする説があるが、使節が持参した品が南方のものだったことや、ローマ側の文献に記録がないことから、現在では否定的に見られている。治世に関する資料は乏しく、『ローマ皇帝群像』のように信憑性の薄いものも含まれる。彼自身の『自省録』は内面の思索が中心で、俗事にはあまり触れていない。
同じ年に亡くなった人物
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