伝記
ヴィットリオ・デ・シーカは、1901年7月7日にイタリア中部のソーラで生まれた映画監督、俳優である。父ウンベルトはイタリア銀行に勤める会社員で、母テレーザはナポリ出身の主婦だった。本人は一家の暮らしを「悲劇的で貴族的な貧しさ」と表現している。父の給料は少なく、二人の姉とともにアルバイトで家計を助けながら高校を卒業した。父との結びつきは強く、のちに監督した『ウンベルト・D』を父に捧げている。1914年に一家はナポリへ移り、第一次世界大戦が始まるとフィレンツェへ、のち最終的にローマに落ち着いた。
少年のころから傷病兵のための慰問の舞台に立ち、会計を学ぶ学生だった1917年には、家族の知人の紹介で無声映画に小さな役を得た。だがこれは例外的な出来事で、1920年代はもっぱら舞台に打ち込んだ。会計士の資格を得たのち、1920年代前半に初舞台を踏み、劇団の巡業で南米も訪れた。俳優のウンベルト・メルナーティと組んだ喜劇の二人組が評判を呼び、レビューやレコード、ラジオでも人気を得て、二枚目の役者、流行歌手として全国に名が知られるようになった。1931年ごろからはイタリア映画にも出演し、マリオ・カメリーニのもとで映画を学んだ。冬は舞台、夏は映画という暮らしを続け、1940年に『ローゼ・スカルラッテ』で共同監督として映画監督デビューを果たした。
転機は、脚本家チェーザレ・ザヴァッティーニとの出会いである。二人が1944年に制作した『子供たちは見ている』は、ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、ブラゼッティの作品と並んで、ネオレアリズモの先駆けと見なされている。戦後も二人は組み、『靴みがき』と『自転車泥棒』を制作した。この二作はネオレアリズモを代表する作品として評価され、いずれもアカデミー特別賞を受けた。1951年の『ミラノの奇蹟』ではカンヌ国際映画祭の最高賞を受賞した。同年には『ウンベルト・D』も発表している。
1950年代に入るとネオレアリズモの動きは停滞し、その旗手の一人だったデ・シーカも壁に突き当たった。1953年には資金を得るため方向を転換し、アメリカの俳優を起用した『終着駅』を制作した。一方で俳優の仕事も続け、1957年の『武器よさらば』ではイタリア人軍医役を演じてアカデミー助演男優賞にノミネートされた。『パンと恋と夢』や『ロベレ将軍』など、晩年に至るまで多くの作品に出演している。監督としては、1960年に『ふたりの女』を、1964年にはソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニを主演に『昨日・今日・明日』を撮り、アカデミー外国語映画賞を受けた。1970年にはソビエト連邦の後援を得て『ひまわり』を発表し、1971年の『悲しみの青春』ではベルリン国際映画祭の金熊賞と二度目の外国語映画賞を得た。
私生活では二度結婚している。スペイン出身の女優マリア・メルカデルとは1942年から事実婚の関係にあった。最初の妻との離婚はメキシコで1954年に成立したがイタリアの法律では認められず、フランスの市民権を取って離婚が認められた1968年に、ようやくメルカデルと正式に結婚した。作曲家となった長男と、俳優となった次男は、いずれもメルカデルとの子である。1974年11月13日、フランスのヌイイ=シュル=セーヌで世を去った。
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