伝記
ジョージ・ホイト・ウィップルは、1878年8月28日にニューハンプシャー州アシュランドで、アシュレイ・クーパー・ウィップルとフランセス・アン・ホイトの子として、内科医の家系に生まれた。父も祖父も医師で、祖父はニューハンプシャー医師会の会長を務めた。しかし父は、ジョージが2歳になる少し前に肺炎か腸チフスで亡くなり、母方の祖父もその年に、父方の祖父もその翌年に亡くなった。このため母フランセスと祖母に育てられ、二人から勤勉と教育の価値を教えられたという。湖水地方で育って野外活動に親しみ、この愛着は生涯続いた。夏にはニューハンプシャーの湖で観光客やキャンプ客の世話や渡し舟の仕事をした。
アンドーヴァーの予備校を経て1896年にイェール大学に入り、1900年に学士号を取った。学部時代には体操やボートで賞を取り、科学の成績も抜群だった。最終学年に生化学者のラッセル・ヘンリー・チッテンデンやラファイエット・メンデルと交わったことは、生涯に消えない印象を残した。学資に乏しく、卒業後の1年間はニューヨーク州オシニングの軍事学校で数学と理科を教え、運動競技のコーチも務めた。1901年には母の助言と説得に従ってジョンズ・ホプキンス大学医学部に進み、1905年に医学博士号を取得した。在学中、ウィリアム・ウェルチ、ユージン・オーピー、ウィリアム・マッカラムの指導を受けて、病気の臨床像と剖検での組織所見を結びつけることに関心を持ち、病理学者への道を選んだ。
1905年にホプキンス大学の病理学教室で助手となり、1914年まで助手、講師、準教授と昇進した。パナマ運河建設中の1907年から1908年にかけては、パナマのアンコン病院に病理医として勤め、熱帯病の経験を積んだ。ボルチモアに戻る前にはヨーロッパを訪れ、ハイデルベルクの研究室で兎の貧血について学び、1911年にはウィーンでハンス・マイヤーのもと、犬の肝門脈の血流を研究している。1914年、34歳でサウスカロライナ州チャールストンのキャサリン・ボール・ウォーリングと結婚し、二人の子をもうけた。同年カリフォルニア大学医学部の実験医学の教授となり、1920年から21年は学部長を務めた。
1921年、エイブラハム・フレクスナーとロチェスター大学学長ラッシュ・リーズの勧めを受け、建設途中だったロチェスター大学医学部の学部長に就いた。1954年まで学部長を務め、死ぬまでここに在籍した。大学関係者の多くは、彼を素晴らしい教育者と見ていた。
主な研究は貧血と肝臓の生理学、病理学である。貧血にした犬にレバーを食べさせると症状が改善することを見いだし、この発見はマイノットとマーフィーによる肝臓療法の開発につながった。当時、悪性貧血は常に致命的であった。これによって1934年、二人とともにノーベル生理学・医学賞を受けた。授賞式では、受賞対象の研究を最初に始めたのはウィップルだったと述べられた。また、小腸の壁に異常な脂肪が蓄積して起こる「腸性脂肪異栄養症」を初めて明らかにし、この病気は現在ウィップル病と呼ばれる。1910年のウォーレン賞、1939年のジョージ・M・コーバー・メダル、1962年のジェシー・スティーヴンソン・コヴァレンコ・メダルも受けている。1976年2月1日、肺炎のためロチェスターの病院で死去した。97歳であった。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・ヒューズ (1976年没)
- スティス・トンプソン (1976年没)
- ルーシー・マンハイム (1976年没)
- フランキー・ダーロ (1976年没)
- Alfredo Pitto (1976年没)
同じ地域に関係する人物
- フランク・シールズ (1975年没)
- レスター・ボウイ (1999年没)
- ロバート・A・ラヴェット (1986年没)
- キース・ヘリング (1990年没)
- チェスター・A・アーサー (1886年没)