伝記
ルネ・カサンは、1887年10月5日、フランス南西部のバイヨンヌに生まれた法学者で裁判官である。ユダヤ人の両親のもとに生まれ、母ガブリエルはアルザス系、ニースでワイン商を営んだ父アザリアは、ポルトガルから追放されたユダヤ人の子孫とされる。少年のころはドレフュス事件の成り行きに熱心に関心を寄せた。ニースのリセに通ったのち、エクス=マルセイユ大学とパリで法学を学び、1908年に文学士、1914年に法学・経済学・政治学の博士号を得て、パリで弁護士となった。
同じ1914年に伍長として動員され、第一次世界大戦のサン=ミエル突出部で、機関銃の掃射により腹部と脚に重傷を負った。傷痍の程度は65パーセントと認定され、生涯を通じて腹帯を着けて過ごしたという。その働きにより軍の表彰を受け、戦功十字章と軍事勲章を授けられた。除隊後は1916年からエクス=アン=プロヴァンスやマルセイユの法学部で講師を務め、1920年に法学教授資格を得てリール大学の教授となり、1929年までその職にあった。その後はパリ大学法学部の教授となり、第二次世界大戦中の中断を除いて、亡くなる1976年近くまで教壇に立ち続けた。
教える傍ら、1916年から退役軍人や傷痍軍人を支える活動に加わった。フランス傷痍軍人・退役軍人協会連合の創設者の一人となり、書記長を経て会長を務めた。ILOでアドリアン・ティクシエと戦争犠牲者の「補償を受ける権利」や退役軍人証の問題を進め、1926年には義肢などの医療の進歩を扱う部局を設けた。1924年から1938年まではフランス政府の代表として国際連盟に出席し、軍縮と国際紛争を解決する機関の設立に力を尽くした。この任務は毎年更新されたが、ミュンヘン協定の後に自ら辞任した。
1940年、休戦を拒んだカサンは、英国船でサン=ジャン=ド=リューズから出航してロンドンに渡り、ド・ゴール将軍に合流した。最初期の合流者の一人であった。このためヴィシー政権は反逆の罪で彼を訴え、軍事法廷は欠席のまま死刑を宣告し、フランス国籍を剥奪した。カサンは自由フランスの法務部門の責任者となり、帝国防衛評議会の創設時からの委員として自由フランスの規約を書いた。英語は話せなかったが、イーデン外相ら要人とは旧知であり、チャーチルと規約を交渉して、自由フランスを戦うフランスの代表と認める協定にこぎつけた。1940年の宣言の起草者でもあり、ペタン体制が違憲だと示そうとした。また、1945年にはフランス人を助けるようにユダヤ人も助けてはどうかと言われ、米英のユダヤ人らとユダヤ人組織諮問評議会を設立した。
1944年から1959年までコンセイユ・デタの副院長を務め、1948年に国際連合総会へ世界人権宣言の草案を報告する役を担った。カナダの法学者ジョン・ハンフリーが作った46条の原案を44条に削り、そこから30条を選んで宣言の草案としたとされる。欧州人権裁判所では1959年から裁判官を、1965年から1968年まで裁判長を務めた。1968年にノーベル平和賞と国連人権賞を同時に受けた。1976年2月20日、パリで死去した。
同じ年に亡くなった人物
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- カルロ・ガンビーノ (1976年没)
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