伝記
マカリオス3世は、1913年8月13日、当時イギリスの保護下にあったキプロス島西部パフォス地区の小さな村パナイアで、ミハイル・クリストドゥル・ムスコスとして生まれた。1926年、13歳でキッコス修道院に修練士として入った。20歳でニコシアの全キプロス・ギムナジウムに送られ、1936年に中等教育を終えた。第二次世界大戦中にアテネ大学で神学と法学を学び、1942年に卒業した。キプロス正教会の司祭の務めを果たしながら神学の研究に関心を持ち続け、世界教会協議会の奨学金を得て、アメリカのボストン大学に留学した。
1948年、ボストンで学んでいる最中に、本人の意に反してキティオン(ラルナカ)の主教に選ばれた。僧名には、「幸福な、祝福された」を意味する古いギリシャ語の名マカリオスを選んだ。1950年9月18日、37歳でキプロス正教会の大主教に選ばれた。大主教は教会の公式の首長であるだけでなく、キプロス人の事実上の民族指導者でもあった。当時のキプロスのギリシャ系の指導者の多くと同じく、ギリシャへの併合を求めるエノシス運動を支持していた。ギリシャが1954年に国連でキプロス問題を提起したときも、一部はマカリオスの働きかけによるものだった。やがてイギリスの統治への反発が強まり、強硬派はキプロス戦士民族機構(エオカ)を結成して武装闘争を繰り広げた。マカリオスと運動の関わりの度合いははっきりせず、論争になっているが、後年の本人はエオカの暴力的な抵抗への関与を断固として否定した。
運動の鎮静化を図ったイギリスは、エノシスの指導者と目されていたマカリオスを、セーシェル諸島に追放した。ニコシア空港で搭乗しようとしたところを身柄を拘束され、1956年3月9日にマヘ島へ送られたとされ、追放の年を1955年とする説もある。追放中、彼はギリシャとの統合から独立へと志向を変えた。釈放されたのちもキプロスへの帰還は禁じられたため、アテネに身を寄せ、国連総会に出席して訴えを続けた。トルコ系住民も反英に傾き、分割や独立、自治を求めたため、事態は一層混迷した。結局、1960年にキプロスは独立を果たし、マカリオスは初代の大統領に選ばれた。
独立直後はトルコ系のキュチュク副大統領と権限を分け合い、ギリシャ系とトルコ系の融和を図った。しかし1963年に憲法改正でトルコ系の権限を弱めようとしたところ、これに反対するトルコ系と、さらなる権限強化を求めるギリシャ系が衝突し、翌年には国連キプロス平和維持軍が派遣された。エオカもマカリオスに対してテロ活動を行い、皮肉にもトルコ系、ギリシャ系の双方の住民から恨まれる立場となった。1972年には国家元首として日本を訪れている。
1974年7月15日、ギリシャの軍事政権の後押しを受けたギリシャ系民兵が行動を起こし、マカリオスは辛くも命拾いしたものの、一時的に大統領の座を失った。これを機にトルコもトルコ系住民の保護を名目に北部キプロスへ出兵し、島の分断は決定的になった。同年12月に大統領に復帰したが、両者の和解に道筋をつけられないまま、1977年8月3日、心臓発作で亡くなった。ギリシャ系住民からは、キプロス共和国の建国の父、民族指導者と広くみなされている。
同じ年に亡くなった人物
- ルイージ・トラグリア (1977年没)
- エディス・バーレット (1977年没)
- Margit Kovacs (1977年没)
- カルロス・リベロ・アグエロ (1977年没)
- ジョン・エデンサー・リトルウッド (1977年没)
同じ地域に関係する人物
- John II of Jerusalem (1285年没)
- サモトラケのアリスタルコス (紀元前143年没)
- グラフコス・クレリデス (2013年没)
- ウァレンティノス (160年没)
- ルートヴィヒ3世 (テューリンゲン方伯) (1190年没)