HISTORICAL PERSON · 1519年没

レオナルド・ダ・ヴィンチ

フィレンツェ共和国出身のルネサンス期を代表する芸術家。「万能の天才」と称され、絵画のほか解剖学、工学、光学など幅広い分野に業績と手稿を残した。

生涯
1519年没
死亡地
フランス共和国(アンドル=エ=ロワール県 / クルーの館)
出生地
イタリア共和国(アンキアーノ)
出典
世界地図
フランス共和国(アンドル=エ=ロワール県)

伝記

レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月15日、フィレンツェ共和国の郊外にあるヴィンチ村で生まれた。父は公証人のセル・ピエロ、母は農夫の娘とされるカテリーナで、非嫡出子だった。ダ・ヴィンチは固有の姓というより「ヴィンチ村出身」を意味するので、個人名の略称としては「レオナルド」を用いるのが適切とされる。「万能の天才」と称され、芸術家でありながら、解剖学、工学、光学、流体力学など多くの分野に手稿を残した。

幼少期のことはほとんど伝わっていない。生まれてから5年ほどはヴィンチの村で母と暮らし、母はすぐに他家へ嫁いだ。1457年から父に引き取られ、祖父母や叔父のフランチェスコと過ごした。父は、レオナルドが生まれて間もなく16歳のアルビエラと結婚し、義母との関係は良好だったが、彼女は若くして死去した。父の再婚は続き、嫡出子が生まれたのは3回目と4回目の結婚のときだった。祖父母からイタリア語を教わったが、正規の初等学校には通えず、ラテン語、数学、幾何学、絵画は、ラテン語学校に通う村の子供たちから見聞きした程度で、独学だったとされる。野山や谷川を好み、村の馬小屋で馬の世話やスケッチをして過ごした。幼少期の記憶として、トビが舞い降りて口元を尾で打ったという「神秘体験」と、洞窟の中の化け物への恐れと好奇心を書き残している。

1466年、14歳のときに、フィレンツェで最も優れた工房の一つを主宰していたヴェロッキオに弟子入りした。同じ工房には、ギルランダイオ、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ロレンツォ・ディ・クレディらが関わった。レオナルドは、素描や絵画、彫刻のほか、設計、冶金、金属加工、機械工学、木工など様々な分野に才能を見せた。ヴァザーリは、『キリストの洗礼』のうち幼い天使をレオナルドが受け持ち、その腕前に驚いた師が二度と絵を描かなかったと記す。この作品はテンペラの上に新技法の油彩で加筆されており、近代の分析では、風景や岩、キリストの大部分もレオナルドの手によるとされる。

20歳になる1472年までに、聖ルカ組合から親方の資格を得た。その後はおそらく父が工房を与え、ヴェロッキオとの協業も続いた。日付の分かる最初期の作品は、1473年8月5日にペンとインクでアルノ渓谷を描いた素描である。1476年、彼を含む青年たちが同性愛の容疑で告発されたが、放免された。以後1478年まで、作品や居住地の記録は残っていない。1478年ごろ、ヴェロッキオとの共同制作をやめ、父の家からも出たと思われる。

1481年5月には、サン・ドナート・スコペート修道院の修道士から『東方三博士の礼拝』の制作を依頼されたが、ミラノへ向かったために中断され、未完成に終わった。ヴァザーリによれば、レオナルドは音楽にも優れ、1482年に馬の頭を意匠とした銀のリラを作った。ロレンツォ・デ・メディチはこれを土産に彼をミラノへ送り、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァとの平和条約を結ぼうとした。存命中から画家としての名声が高いが、現存する絵画は15点ほどとされ、完全主義で作品を破棄したことなどによる。その後、ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアなどで活動し、晩年はフランス王フランソワ1世に下賜された邸宅で過ごし、1519年5月2日に世を去った。

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