HISTORICAL PERSON · 1521年没

マヌエル1世 (ポルトガル王)

ポルトガル王。インド航路の開設など幸運に恵まれて黄金期を築き、幸運王と称された。海外交易の利益を背景に絶対王政を確立した。

生涯
1521年没
死亡地
ポルトガル共和国(リスボン県 / リスボン)
出生地
ポルトガル共和国(リスボン)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(リスボン県)

伝記

マヌエル1世は、1469年にリスボン近郊のアルコシェテで生まれた。父は第11代国王ドゥアルテ1世の三男ヴィゼウ公フェルナンド、母はその従姉ベアトリスである。母の姉イザベルはカスティーリャ王フアン2世の妃で、女王イサベル1世の母にあたるため、マヌエルとイサベル1世は従姉弟の関係にあった。傍流の六男として生まれながら、偶然が重なって平和裏に王位に就き、治世にインド航路の開設などの吉事に恵まれたことから「幸運王」と称される。

上の姉レオノールが従兄の王太子ジョアン(後のジョアン2世)と結婚し、1481年に王妃となったため、マヌエルは国王の従弟であり義弟でもあった。ジョアン2世は貴族や自治共同体の特権を縮小して王権を強化しようとし、反対する貴族らと対立した。マヌエルの兄ヴィゼウ公ディオゴは1484年に反対派貴族の盟主として国王暗殺を企てて失敗し、ジョアン2世に殺された。さらなる叛逆の盟主に祭り上げられる可能性のあったマヌエルは、国王から危険視されて不安な時期を過ごした。1493年、国王の召還命令を受けて覚悟を決め王宮に赴くと、告げられたのは王太子に指名するとの言葉であった。1491年に王太子アフォンソが事故で亡くなり、他の男子は非嫡出子で幼少のため候補から外れ、マヌエルの兄も既に全員他界していた。王妃である姉の働きかけもあり、貴族からも支持されてマヌエルは王太子となり、1495年10月にジョアン2世の崩御に伴って即位した。

即位するとただちに、先王のもとで財産や権限を奪われていたブラガンサ公ジャイメ1世らの貴族に大部分の財産を返還して懐柔した。一方で、中央集権化とアジアとの海上貿易路開拓という基本路線は先王から受け継いだ。各地で異なっていた租税制度や度量衡を近代化・統一し、全地方の行政・裁判を王の代官コレジェドールの監督下に置いた。度量衡の統一は不完全に終わったが、これらの法規は『マヌエル法典』としてまとめられ、1521年に公布された。即位の年にはキリスト騎士団長となり、海外の騎士団領を王領に併合して王室財産を拡大した。

その治世に、ヴァスコ・ダ・ガマが1497年7月にリスボンを出港し、1498年5月にインドのカリカットに到達して、喜望峰を経る航路が発見された。1500年にはカブラルがブラジルに漂着した後、インドに着いた。1505年にはフランシスコ・デ・アルメイダを初代インド総督に任命し、1509年にはディーウ沖の海戦でエジプト艦隊を破った。続く総督アフォンソ・デ・アルブケルケは、1510年にゴアを、1511年にマラッカを占領し、1517年には広東に入港した。アジアからの香辛料、アフリカからの金、マデイラ島の砂糖により、莫大な利益を得た。海外交易で豊かになったマヌエルは、芸術家や科学者を宮廷に招き、ジェロニモス修道院やベレンの塔などの華美な建造物を建てた。この様式は、後に19世紀になって「マヌエル様式」と呼ばれた。

スペインでユダヤ人追放令が出されると、ポルトガルにも多くのユダヤ人が逃れ、マヌエルは即位するや彼らを奴隷身分から解放した。しかしカトリック両王の王女イサベルを妃に迎えるにあたり、スペインが追放を求め、1496年に応じてユダヤ人に追放令を出した。ただし追放は経済上の大損失になると認識していたマヌエルは、翌1497年に形式的な強制改宗を断行した。これらの人々は「新キリスト教徒」と呼ばれ、さまざまな差別を受けた。マヌエルは3度結婚し、1521年にリスボンで崩御して、ジェロニモス修道院付属の教会に葬られた。

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