伝記
孫策は、中国後漢末期の武将である。字は伯符、揚州呉郡富春県の人。父の孫堅を若くして亡くし、19歳で袁術の将軍となった。やがて江東を制して大きく躍進したが、建安5年(200年)に刺客に襲われて重傷を負い、弟の孫権を後継に定めてまもなく世を去った。享年26。
父が反乱の鎮圧に加わっていたころ、孫策は寿春で母や弟たちと暮らしていた。十数歳のときには江淮一帯で名声を得て、名家出身の周瑜がその名を聞いて訪ねてきた。中平6年(189年)には周瑜の招きで母や弟たちとともに廬江郡舒県へ移り、周瑜は大きな屋敷を譲って家族同然に付き合ったという。初平2年(191年)に父が劉表との戦いで死ぬと、孫策は孫権とともに袁術軍に従った。その後、広陵の江都で張紘と知り合い、母と弟たちを彼に託している。初平4年(193年)に寿春で袁術の旗下に入り、丹陽太守の呉景を頼って挙兵したが、初陣では祖郎に攻められて大敗した。呉景の進言に従い、孫河や呂範らと祖郎を攻めて敗走させている。
興平元年(194年)、孫策は袁術に父の軍の返還を求め、1000人強の兵を得た。数は少なかったが、朱治、黄蓋、韓当、程普といった孫堅軍の中核の武将が揃っていた。袁術の命で陸康を攻め、翌年に舒県を落として廬江を得たが、袁術は戦功を認めず、側近の劉勲を廬江太守にした。独立の機会をうかがう孫策は、張昭、張紘らの知謀の士や、蔣欽、周泰、陳武、凌操らの猛者を迎えて人材を厚くした。やがて朱治の勧めで、劉繇と対峙する呉景の援軍に向かうことを袁術に願い出て許された。歴陽で呉景と合流し、周瑜とも再会した。周瑜から兵力と情報の提供を受け、兵は5千人以上に膨れ上がっていた。
興平2年(195年)、孫策は長江を渡って牛渚の要塞を落とし、劉繇を曲阿へ敗走させ、秣陵城も制圧した。笮融を攻めた際には矢が太ももに当たって後退したが、追撃してきた于茲を伏兵で大破した。劉繇の部将の太史慈とは、わずかな供を連れていたときに遭遇して打ち合い、兜や手戟を奪い合って引き下がった。劉繇が曲阿を捨てて逃げると、孫策はここを拠点とした。建安元年(196年)には許貢、王朗を破り、独立勢力となっていた太史慈も部下に迎えた。建安2年(197年)、袁術が袁胤を丹陽太守に任じて備えさせると、孫策は袁胤を追放して独立を宣言した。周瑜は魯粛を連れて合流し、呉景と孫賁も従った。孫策は呂蒙や虞翻を登用する一方、勢いの激しさゆえに抵抗勢力を抱え、厳虎ら地元豪族を粛清した。孫策の勢いは項羽に似ると上奏しようとした許貢も、怒りを買って殺された。建安4年(199年)に袁術が死ぬと、孫策は劉勲を手紙で上繚攻めに誘い出し、留守の皖を急襲して旧袁術軍を手に入れ、廬江も得た。続いて黄祖を攻め、豫章を平定して、江東の五郡を支配下に収めた。
建安5年(200年)、曹操の主力が袁紹に向かった隙に許都攻略を計画したとされる。ただし本当の標的は陳登だったともいわれる。孫策が単騎で外出した日、長江のほとりに潜んでいた許貢の客人3人に遭遇し、1人を射殺したが、残る2人の矢の一本が頬を貫いた。死期を悟った孫策は、孫権を後継に、張昭を補佐役に指名した。孫権には、戦場を駆ける点ではまだ自分に及ばないが、才能ある者を用いて江東を保つ点では自分よりずっと優れていると言い残したとされる。229年に皇帝となった孫権は、孫策に長沙桓王の諡号を贈り、建業に廟を建てた。郭嘉は、備えのない孫策は必ず匹夫の手で死ぬと評し、陳寿は、傑出した英気を備えながら軽はずみで身を滅ぼしたと評した。
同じ年に亡くなった人物
- Hyginus Gromaticus (200年(推定))
- 于吉 (200年没)
- ロンゴス (200年(推定))
- グラニウス・ルキニアヌス (200年(推定))
- パーパク (200年(推定))