伝記
トマス・ウルジーは、イングランドの聖職者、政治家で、ウルジー枢機卿の名で知られる。国王ヘンリー8世の治世の初期に寵臣として抜擢され、信任を得て内政と外交に手腕を振るった。
1475年ごろ、イングランド東部サフォークのイプスウィッチに生まれ、父は肉屋をしていた。地元のグラマースクールとオックスフォード大学のモードリン・カレッジで学び、カレッジのフェローに選ばれて、1498年に聖職者の資格を得た。貴族たちの知己を得ながら各地の聖職禄を獲得し、カンタベリー大司教付きのチャプレンなどを経て、1507年にヘンリー7世の王室礼拝堂付き司祭となり、外交使節も務めた。しかし慎重な王に警戒され、出世しなかったという。1509年に即位したヘンリー8世にも認められて非公式の秘書官となり、王と顧問官たちのパイプ役を務めて、1511年に枢密顧問官となった。1513年のフランス遠征の兵站などに奔走した功で王の覚えがめでたくなり、翌1514年にはヨーク大司教に任命された。莫大な不動産収入を得たが、失脚するまでヨークへ行かない教区不在聖職者だった。1515年には教皇レオ10世への推薦で枢機卿に任命され、同年に大法官となり、1518年には教皇特使となった。聖俗の司法権を握り、イングランド教会の支配を一手に収めるようになった。
国政の細部に無関心な王から実務を任され、外国使節の間では「もう1人の国王」と渾名された。外交では、ヨーロッパ諸国の調停者となることでイングランドの国際的地位を高めようとした。1518年には、オスマン帝国に対する十字軍結成を教皇が呼びかけたことを利用し、批准国が20か国にもおよぶ平和条約をまとめ、ロンドンは一時的ながら脚光を浴びた。同時に、フランスに60万クラウンでトゥルネーを返す実利も得た。しかし1519年の神聖ローマ皇帝選挙でヘンリー8世が出馬して落選すると、イングランドはハプスブルク家とフランスの間で翻弄された。1524年に臨時税をかけようとして国内の猛反発を受け撤回するなど、財政でも苦慮した。内政では、囲い込みの実態調査や、星室庁の強化などの司法改革を手がけ、約30の小修道院を解散して、その資産でオックスフォード大学にカーディナル・カレッジを創設した。一方で自身は多くの聖職禄を抱え、ハンプトン・コート宮殿の建築など豪奢な暮らしを送り、人々の反聖職者感情を刺激した。1516年から召し抱えたトマス・クロムウェルは、のちに王の側近となる。
やがて、王とキャサリン・オブ・アラゴンの離婚問題が、ウルジーを追い詰めた。教皇クレメンス7世が離婚を認めなかったため王が激怒し、ウルジーは1525年にハンプトン・コート宮殿を王に献上したが、1527年の教皇への最終的な陳情も失敗した。1529年6月の離婚審問も不首尾に終わり、王がすでに同棲を始めていたアン・ブーリンは、ウルジーが妨害していると思いこんで、「私腹を肥やしている」と告発した。ウルジーは11月3日に大法官を罷免され、全財産を没収された。死罪は逃れ、ヨーク大司教の地位だけは認められた。1530年8月、ケイウッドで教皇庁への使者を派遣するなど政治活動を再開したことが王の猜疑心を呼び、逮捕された。ロンドンへ護送される途中で病死し、没したのは1530年11月28日または29日とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ボニファーチョ4世 (モンフェッラート侯) (1530年)
- ペル・ダ・コヴィリャン (1530年)
- バーブル (1530年没)
- エリク・アルヴィドソン・トローレ (1530年没)
- ヴィリバルト・ピルクハイマー (1530年)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー (第3代ランカスター伯) (1345年没)
- ロウレル・エイトキン (2005年没)
- スー・タウンゼント (2014年没)
- William Kinnear (1974年没)
- ヘンリー・オブ・グロスモント (初代ランカスター公) (1361年没)