伝記
アンドレア・デル・サルトは、ルネサンス期にフィレンツェで活躍した画家で、金細工師でもあった。本名はアンドレア・ダニョーロ・ディ・フランチェスコといい、「デル・サルト」は「仕立て屋の」を意味する通称である。父アニョーロが仕立て屋(サルト)だったことによる。ミケランジェロやラファエロらがローマで華々しく活躍していたのと同じころ、フィレンツェの美術の伝統を守っていた画家とされる。生前は「誤りなきアンドレア」と称えられて高く評価されたが、死後は同時代のレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの名声にかすんだ。
1486年7月16日、フィレンツェに生まれた。1494年までに金細工師のもとで徒弟となり、続いて木彫家で画家のジャン・バリレのもとに1498年まで留まった。後の伝記作者ヴァザーリによれば、その後はピエロ・ディ・コジモに、さらにラッファエッリーノ・デル・ガルボにも師事したという。年長の友人フランチャビージョとピアッツァ・デル・グラーノに共同の工房を構え、二人の協力による最初の成果は、単色壁画の連作の始まりとなる『キリストの洗礼』だったとされる。
1509年から1514年にかけて、セルヴィ派修道会の依頼で、フランチャビージョらとともにサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂の壁画に携わった。前庭の回廊に7点のフレスコ画を描き、うち5点は聖フィリッポ・ベニッツィの生涯と奇跡を主題とし、1510年の終わりまでに完成させた。修道会は聖セバスティアヌスを主題とする連作も求めたが、報酬が低かったためか、彼はこれを続けたがらなかった。それでも修道会に説得され、主題の異なる『東方三博士の行列』(1511年、自画像を含む)と『聖母の誕生』(1514年)を追加で描いた。これらは輪郭の正確さを賞賛され、「誤りなきアンドレア」の異名を得た。1515年までには、洗礼者ヨハネ兄弟会の回廊に『正義の寓意』などを完成させ、1517年に『民衆に洗礼を授けるヨハネ』が続いた。
1516年末までに、彼の構図による『ピエタ』と『聖母』がフランス宮廷へ送られ、1518年にフランソワ1世の招きを受けた。6月にパリへ旅立ち、妻ルクレツィアをフィレンツェに残した。ヴァザーリによると、帰国を求める妻の手紙を受け取った王は短期間の不在を条件に許可し、美術品の購入資金を彼に託したが、彼はその金でフィレンツェに家を買い、評判を落としてフランスに戻れなくなったという。ただし、この話は後世の詩の題材となったものの、一部の歴史家は作り話と見なしている。
1520年にフィレンツェで仕事を再開し、スカルツォの回廊に『信仰』と『慈愛』を描いた。1523年の『ザカリアへの天使のお告げ』などが続き、1524年秋には、ペストの流行でルーコ・ディ・ムジェッロに避難した後、単色の『訪問』を描いた。1525年には、アンヌンツィアータ聖堂の回廊に戻って『袋の聖母』を描いている。代表作『ハルピュイアの聖母』(1517年)には、安定した三角形構図、甘美な色彩、レオナルドの影響が見られるスフマート技法など、画風の特色が見られる。弟子からは、ポントルモやロッソ・フィオレンティーノなど、次世代のマニエリスム絵画を担う画家が出た。1530年9月29日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ティルマン・リーメンシュナイダー (1531年没)
- ヴァッラバ (1531年)
- フルドリッヒ・ツヴィングリ (1531年没)
- ヘロニモ・デ・アギラール (1531年没)
- ルイーズ・ド・サヴォワ (1531年没)
同じ地域に関係する人物
- サルヴァトーレ・フェラガモ (1960年没)
- ジロラモ・サヴォナローラ (1498年没)
- ユストゥス・スステルマンス (1681年没)
- ジョッティーノ (1372年没)
- Tomas Frias Ametller (1884年没)