伝記
ルネ・クレール、本名ルネ=リュシアン・ショメットは、1898年11月11日にパリで生まれたフランスの映画監督・脚本家・映画プロデューサーである。「詩的リアリズム」の監督といわれる。育ったのは、エミール・ゾラが「パリの胃袋」と呼んだ中央卸売市場があった、パリ1区のレ・アル地区である。父は石鹸の商人で、兄にのちに映画監督となるアンリ・ショメットがいた。リセ・モンテーニュとリセ・ルイ=ル=グランで学び、1914年には哲学を勉強していた。第一次世界大戦では、1917年に18歳で救急車の運転手として従軍したが、脊椎の怪我で除隊した。戦後はパリで、ルネ・デプレの名で左派系新聞の記者となった。
シャンソン歌手のダミアに歌詞を提供した縁で、彼女に勧められ、ゴーモン撮影所を訪れて映画に出演した。そのとき、ルネ・クレールという芸名を名乗った。ロシアのヤーコフ・プロタザノフ監督の『死の意味』(1921年)や、ルイ・フイヤード監督の『孤児の娘』(1921年)に出演し、ロシア革命から逃れた白系ロシア人たちと交流が生まれた。1922年には映画雑誌の付録の編集者となり、ブリュッセルで映画技法を学んだ。兄の紹介で、ジャック・ド・バロンセリ監督の助手を何本か務めた。
1924年、プロデューサーのアンリ・ディアマン=ベルジェの支援で、監督処女作となる短編の喜劇『眠る巴里』を撮った。その公開前に、フランシス・ピカビアとエリック・サティから、ダダイスムのバレエ『本日休演』の一部として上映する短編映画を頼まれ、前衛的な短編『幕間』を作った。これにより、パリの前衛映画の主要な作り手と見なされるようになった。1926年にアルバトロス社に加わり、ドラマ『風の中の餌食』を撮って商業的な成功を収め、サイレント期の最後の2本『イタリア麦の帽子』と『二人の臆病者』(ともに1928年)では、ラビッシュの戯曲の言葉の喜劇を、無声映画の表現に置き換えた。自分で脚本を書き、編集まで気を配ることで、フランスで最初に作家としての役割を確立した映画人の一人となった。
当初、トーキーは「不自然な創造物」と懐疑的だったが、音を現実のままに使わない可能性に気づいた。1930年の『巴里の屋根の下』を皮切りに、『ル・ミリオン』『自由を我等に』(ともに1931年)、『巴里祭』(1932年)と続く最初の4本のトーキーは、労働者の暮らしを愛情をこめて理想化して描き、世界に広まるパリのロマンチックなイメージを作り上げた。トリュフォーは、『巴里の屋根の下』『ル・ミリオン』などを「パリ三部作」と呼び、幸福な映画作家だったと評した。喜劇『最後の億万長者』(1934年)は日本では評価されたが、失敗したため、プロデューサーのアレクサンダー・コルダに誘われて、1935年からイギリスで『幽霊西へ行く』など2本を撮った。
第二次世界大戦中はハリウッドに移り、『奥様は魔女』(1942年)やアガサ・クリスティ原作の『そして誰もいなくなった』(1945年)など5本を発表したが、ヴィシー政権から国籍を剥奪された。戦後の1947年、『沈黙は金』でフランス映画界に復帰し、『悪魔の美しさ』『夜ごとの美女』『夜の騎士道』などで高く評価された。1953年にケンブリッジ大学から名誉教授号を授与され、1960年にアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。1970年には日本万国博覧会のために来日している。1981年3月15日、ヌイイ=シュル=セーヌで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ジュゼッペ・トージ (1981年没)
- リカルド・ウルフ (1981年没)
- ロバート・ラッセル・ベネット (1981年没)
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- ミロスラヴ・クルレジャ (1981年没)
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