HISTORICAL PERSON · 1982年没

ルイ・アラゴン

フランスの小説家・詩人・文芸評論家。ブルトンらとダダイスムやシュルレアリスムを牽引した。後に共産党に入党し、ナチス占領下では地下出版で抵抗した。

生涯
1982年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 7区)
出生地
フランス共和国(16区)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ルイ・アラゴンは、1897年10月3日にパリ16区で生まれ、1982年12月24日に没したフランスの小説家、詩人、文芸評論家である。アンドレ・ブルトン、フィリップ・スーポーらとともにダダイスムとシュルレアリスムを牽引し、『リテラチュール』を創刊して、文芸雑誌『シュルレアリスム革命』を主宰した。1927年に共産党に入党し、のちにナチス・ドイツ占領下で詩や文章を地下出版し、レジスタンスの詩人として知られた。1936年に『お屋敷町』でルノードー賞を受けている。

私生児として生まれ、父は弁護士で政治家のルイ・アンドリューであった。父は1882年に6か月間、駐スペインのフランス大使を務めたことから、息子の姓をスペインのアラゴン州にちなんで「アラゴン」とした。アラゴンは母方の家庭で、祖父母や大叔母、叔父に育てられた。祖父はパリ・コミューンに参加した人物で、叔父エドモンは文学者と親交が深く、自ら文芸誌を創刊した。早くから小説や詩を書いた。12歳のときに作文部門の一等賞の賞品としてモーリス・バレス選集を与えられ、バレスに心酔し、人生の方向を決定づけたと言ってもよいほどだと語っている。この頃にゴーリキーの作品にも出会った。

1914年に第一次世界大戦が勃発し、1915年に哲学のバカロレアに合格して、医学の勉強を始めた。1917年9月に医学生として動員され、ヴァル=ド=グラース陸軍病院で、同じ医学生のブルトンに出会った。互いにマラルメ、ランボー、アポリネール、ロートレアモン、ジャリなど、当時ほとんど評価されていなかった詩人に関心を抱いていることを知った。ブルトンはアラゴンにスーポーを紹介し、交友は書店に集う作家や詩人たちへと広がった。1918年6月に准士官として出征し、エーヌ県で負傷した。1919年に復員して医学の勉強を再開し、同年3月にブルトン、スーポーとともに『リテラチュール』を創刊した。1920年には最初のダダ宣言を発表し、ブルトンを中心に挑発的で反芸術的な活動を企画した。

1921年には、トリスタン・ツァラとブルトンの対立が表面化した。春に行った即興劇「バレス裁判」では、アラゴンとスーポーが弁護士役を務めた。この結果、アラゴンはブルトンを支持し、『リテラチュール』誌はダダと縁を切った。すべてを破壊して無意味化するダダに対し、無意識を重視するのがシュルレアリスムの根本的な違いであった。1923年7月の「髭の生えた心臓の夕べ」は、ダダイスムの終焉を告げる事件となった。アラゴンは1922年の初めに家族の反対を押し切って医学を断念し、服飾デザイナーで美術品蒐集家でもあった人物の蔵書に関する助言者として生計を立てた。

1924年にシュルレアリスム宣言が発表され、研究所が設立された。アナトール・フランスの死に際して共同執筆した小冊子『死骸』に掲載されたアラゴンの記事は、一大スキャンダルを巻き起こした。1924年末に創刊された『シュルレアリスム革命』は、4号まで他の者が編集し、以後はアラゴンが中心となって1929年まで続き、運動の最も重要な雑誌の一つとなった。1925年にはリーフ戦争への反対声明を共産主義者と共同で出した。1926年末から翌年にかけて、アラゴンはエリュアール、ブルトンらとともに共産党に入党したが、ブルトンはまもなく離党し、政治的立場や小説をめぐって二人の間に対立が生じ始めた。1930年にハルキウで開かれた国際革命作家同盟の大会にシュルレアリストを代表して参加したことを機に、社会主義リアリズムに転向した。

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