伝記
インディラ・プリヤダルシニー・ガンディーは、1917年11月19日にイラーハーバードで、ジャワハルラール・ネルーと妻カマラの一人娘として生まれたインドの政治家である。インド初の女性首相で、第3代と第6代の首相を務めた。家は富裕なバラモン階級の家柄で、インド国民会議派の独立運動家だった父ネルーが、何度も投獄されるのを見ながら幼少期を過ごした。インディラはインドやスイス、イギリスの学校で教育を受け、1930年代後半にイギリスに渡ってオックスフォード大学サマーヴィル・カレッジで学んだ。インドに帰郷後の1942年に、パールシーのフェローズ・ガンディーと結婚した。マハトマ・ガンディーとの血縁関係はない。
1947年にインドが独立すると、夫は国会議員として活動した。夫婦の関係は悪化していたが、フェローズが1957年の総選挙の直後に病に倒れると、献身的に介護して改善した。それも長くは続かず、1960年にフェローズは亡くなった。インディラは、父の首相在任中の1959年にインド国民会議の総裁に就任して政治の表舞台に出たが、総裁職は1年で退いた。1964年5月27日に父が死去すると、支持者から政界に進むよう求められ、シャーストリー内閣の情報放送大臣に就任した。1966年にシャーストリーが心臓発作で急死すると、党内の投票でモラルジー・デーサーイーを破って首相となった。お飾りと見られていたが、強力な指導力を発揮した。
当時、インドは食糧危機にあり、世界銀行の融資を得るため1966年6月にルピーを切り下げたが、パキスタンとの関係悪化を理由にアメリカが援助を打ち切り、世界銀行も融資を大幅に減らした。世論が反米色を帯びると、インディラはアメリカと距離を置き、社会主義的な路線を進めて、1969年に商業銀行大手14行を国有化した。この政策をめぐって国民会議は分裂した。1971年には東パキスタンの独立運動に武力で介入して第三次印パ戦争となり、ソ連と印ソ平和友好協力条約を結んで支援を受け、勝利した。1972年のシムラー協定で、パキスタンに東パキスタンのバングラデシュとしての独立を認めさせた。
1971年の総選挙では「貧困の追放」を掲げて議席を伸ばしたが、選挙違反を指摘され、1975年にイラーハーバード高等裁判所が有罪とし、議員資格の停止を決めると、これに対抗して全国に非常事態を宣言した。反対勢力を強権で排除し、野党の党員を多数逮捕・投獄した。非常事態令は7か月後に停止された。1977年の総選挙でデーサーイーらのジャナタ党に惨敗し、自身も落選したが、与党内の反対にもかかわらず政権を譲った。1978年に補欠選挙で復権をめざし、次男サンジャイとともに逮捕されたが、かえって同情を集めた。ジャナタ党政権は内部から分裂して崩壊し、1980年の総選挙で国民会議が政権を奪還して、インディラは再び首相となった。
1984年6月、シク教分離主義者の殲滅をねらう作戦を軍に命じ、シク教の聖地、黄金寺院を攻撃させた。作戦は分離主義運動の指導者ビンドランワレが死亡して成功したが、シク教徒の激しい反発を招いた。同年10月31日、インタビューを受けるために歩いている途中、2人のシク教徒の警護の警官に銃撃され、病院へ運ばれる途中で亡くなった。犯人の一人はその場で射殺され、もう一人は逮捕されて1989年に絞首刑となった。死後、反シク教の暴動が起きた。後任の首相には長男のラジーヴが就いたが、1991年に暗殺され、「ガンディー家の悲劇」と呼ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- アウレリオ・ペッチェイ (1984年没)
- カルロ・ゼッキ (1984年没)
- レナード・ローズ (1984年没)
- マニュエル・アロンソ (1984年没)
- ハンス・ヴィンヤレンゲン (1984年没)
同じ地域に関係する人物
- Mohan Rakesh (1972年没)
- Sucheta Kripalani (1974年没)
- ヴィシュワナート・プラタープ・シン (2008年没)
- アラー・ウッディーン・ハルジー (1316年没)
- クトゥブッディーン・バフティヤール・カーキー (1235年没)