伝記
フランソワ・ロラン・トリュフォーは、1932年2月6日にパリで生まれ、1984年10月21日に没したフランスの映画監督、脚本家、俳優である。ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人で、映画作家で理論家のアレクサンドル・アストリュックは、彼を「愛のシネアスト」と定義した。
両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に入れられるなど、親との関係に問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄して映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始めた。15歳のとき、のちに映画評論誌『カイエ・デュ・シネマ』の初代編集長となる批評家アンドレ・バザンと出会って引き取られ、バザンが死ぬまで親子同然の生活を送った。失恋をきっかけに軍隊に志願したが、インドシナ戦線に送られるのを恐れて脱走し、捕まって軍刑務所に投獄された。このときもバザンが保護者となって、軍隊から救い出した。20歳になると、バザンの勧めで映画評論を書くようになり、同誌を中心に、先鋭的で攻撃的な批評を数多く執筆した。1954年1月号に掲載された「フランス映画のある種の傾向」は、とくに厳しい論調だった。
最初の短編映画を発表したあと、1956年にロベルト・ロッセリーニの助監督となった。1957年に配給会社の社長令嬢と最初の結婚をし、同年、製作会社を設立して、2作目の短編『あこがれ』を演出した。1959年に処女長編『大人は判ってくれない』を監督し、第12回カンヌ国際映画祭に出品されて大絶賛を浴び、監督賞を受賞した。作品は大ヒットし、トリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高めた。自身の体験を下敷きにしたこの作品は、ジャン=ピエール・レオ演じるアントワーヌ・ドワネルを主人公とするシリーズとなり、『逃げ去る恋』(1978年)まで合計5本が作られた。1963年には東京の第3回フランス映画祭に参加するため来日している。
1968年のカンヌ国際映画祭でコンテストの是非をめぐって大論争が起きると、トリュフォーは映画祭の粉砕を主張して最も過激な論陣を張った。映画祭の改革を主張した彼に対して、ジャン=リュック・ゴダールは政治的な改革を訴え、二人の方向性の違いが明らかになった。これをきっかけに、盟友だったゴダールと決別し、ヌーヴェルヴァーグの面々とも疎遠になった。1968年の『黒衣の花嫁』や、1969年の『暗くなるまでこの恋を』は高い評価を得た。1973年には、映画制作の裏側を描いた『アメリカの夜』を「映画へのラブレター」と銘打って発表し、アカデミー外国語映画賞を受賞した。監督と科学者役を兼ねた『野性の少年』を観たスティーヴン・スピルバーグの依頼で、『未知との遭遇』に科学者役で出演している。
1983年7月に脳腫瘍と診断され、友人宅で療養した。ミロシュ・フォアマン監督の『アマデウス』のプレミアに出席することを望んでいたが、叶わないまま、1984年10月21日に死去した。生涯に制作した映画は25本である。世界各国の映画関係者が集まって盛大な葬儀が執り行われたが、ゴダールは参列せず、追悼文も書かなかった。4年後の1988年に出版された書簡集に、トリュフォーからの手紙を提供し、「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」と序文を結んだ。
同じ年に亡くなった人物
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- アルヒープ・リューリカ (1984年没)
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