HISTORICAL PERSON · 219年没

龐徳

後漢末の武将。馬騰・馬超に仕え、鍾繇の援軍として先鋒を務めて郭援を討った。張魯に従ったのち曹操に降った。219年、樊城で関羽の水軍に囲まれて捕らえられ、降伏を拒んで処刑された。曹操はその死を悲しんだ。

生涯
219年没
死亡地
中華人民共和国(湖北省 / 襄陽市)
出生地
中華人民共和国(隴西県)
出典
世界地図
中華人民共和国(湖北省)

伝記

龐徳は、中国後漢末期の武将である。字は令明。涼州南安郡豲道県の人で、現在の甘粛省天水市武山県にあたる。従兄に龐柔、子に龐会がいる。若い頃は郡吏や州の従事となり、初平年間には馬騰に従って羌族や氐族の反乱を討ち、幾度か功績を挙げて校尉に昇った。

建安7年(202年)、曹操が袁譚・袁尚を黎陽に討った際、郭援と高幹が数万の軍勢で侵攻してきた。馬騰は兵1万余りを馬超に預けて鍾繇の援軍とし、龐徳はその先鋒となって、平陽で郭援を自ら討ち取った。ただし、そのときは相手が郭援だと知らなかった。帰陣して首級を弓袋から取り出すと、郭援が甥にあたる鍾繇は号泣したので、龐徳は謝罪した。鍾繇は「郭援は我が甥とはいえ国賊です。貴公が謝ることはありません」と答えたという。この功で龐徳は中郎将に昇進し、都亭侯に封じられた。建安10年(205年)には、馬騰に従って両崤で張白騎を討ち、戦うたびに陣を陥れて敵を退け、その武勇は馬騰軍随一とされた。建安13年(208年)に馬騰が入朝して衛尉に任じられると、龐徳は留まって馬超に仕えた。建安16年(211年)に馬超が渭南で曹操に敗れると、これに従って漢陽に逃げ込み、冀城に入った。涼州を追われた馬超が漢中に走った際にも同行している。建安19年(214年)に馬超が益州へ出奔したあとも、龐徳は張魯のもとに留まった。建安20年(215年)、曹操が漢中を平定すると、張魯とともに降伏してその家臣となった。曹操は龐徳の勇猛さを知っていたため、立義将軍に任じて関門亭侯に封じ、所領を300戸とした。

建安24年(219年)、宛城で侯音や衛開らが反乱を起こすと、龐徳は曹仁とともに鎮圧し、両者を処刑した。続いて樊城に駐留し、劉備軍の関羽に備えた。従兄の龐柔が漢中にいることを理由に、樊城の諸将からは強く疑われたが、龐徳は常々「私は国のご恩を受け、命を懸けることで義を行なうものである。この手で関羽を討ちたい。今年関羽を殺さなければ、関羽が必ず私を殺すであろう」と語っていた。実際に関羽と戦って矢をその額に命中させ、白馬に乗るのが常だったことから、関羽の軍勢には白馬将軍と呼ばれて畏れられた。

ところが、曹仁の命で樊城の北10里に駐屯していたとき、長雨で漢水が氾濫した。龐徳は丘に避難したが、関羽の水軍に四方から射撃された。孤立無援のなか弓をとって勇戦し、関羽に降ろうとした配下の董衡・董超らを殺した。戦いは夜明けから午後まで続き、矢が尽きると近接武器で戦った。督将の成何には「良将は死を恐れて逃れようとはせず、烈士は節を折って生を求めることはないと聞いている。今日こそが私の死期なのだ」と告げた。増水で兵が挙って降伏するなか、龐徳は小舟で曹仁のもとへ戻ろうとしたが、舟が転覆し、弓矢も失って捕らえられた。関羽は漢中にいる従兄を引き合いに降伏を勧めたが、龐徳は「私は国家の亡霊となろうとも、賊将にはなるまい」と拒み、処刑された。

死を聞いた曹操は涙を流して悲しみ、龐徳の子2人を列侯に封じた。また、宿将の于禁が関羽に降ったことと対比し、「わしが于禁を知ってから30年になる。危機を前にし困難に遭って、龐徳に及ばぬとは思いもよらなかった」と語った。のちに即位した曹丕は墓前に使者を送って壮侯と諡し、子の龐会ら4人も爵位と封邑を授かった。243年には曹芳の詔勅により、曹操の廟庭に祭られた功臣20人のなかに列している。後世の小説『三国志演義』では、龐徳は忠義を貫いて関羽に処刑される人物として描かれる。

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