伝記
関羽は、後漢末から三国時代初期にかけて劉備に仕えた武将である。河東郡解県の出身であること以外、出自は史書に記されず、歴史学者の渡邉義浩をはじめ、庶民の出とする見解が有力である。字は本来「長生」で、のちに「雲長」へ改めたとされる。故郷を出奔して涿郡へ亡命した理由も記されておらず、土地の有力者や塩商人を殺して官吏に追われたという民間伝承がある。涿郡で劉備・張飛と出会い、黄巾の乱に立ち向かうため兵を募っていた劉備が平原県を治める地位に就くと、張飛とともに指揮官として私兵を与えられた。三人は寝床を共にし、兄弟のように振る舞った。劉備が座る間、関羽と張飛は朝から晩まで傍らに立って仕え、危険な場所へもどこまでも従ったという。
これより先、曹操と劉備が下邳で呂布を包囲した際、関羽は秦宜禄の妻杜氏を妻にほしいと曹操に再三願い出た。曹操は美貌ゆえかと怪しみ、勝利後に彼女を自分のものとしたため、関羽は強い不満を覚えたという。建安5年(200年)、曹操に捕らえられた関羽は偏将軍に任じられ、厚遇された。曹操は彼が長く留まる気のないことを察し、張遼に真意を探らせている。袁紹の将顔良との白馬の戦いで関羽は顔良を討って首を持ち帰り、曹操から漢寿亭侯に封じられた。だが賜り物を封印し、別れの手紙を残して袁紹のもとの劉備へ去った。曹操は追撃を進言されたが「それぞれに主君がある」と許さなかったと伝えられる。
建安13年(208年)、劉備が諸葛亮を三顧の礼で迎えると、関羽は張飛とともに強い不満を覚えたが、劉備は「魚が水を得たようなもの」と諭した。曹操が荊州へ侵攻すると、関羽は数百隻の船団を率いる別働隊を指揮し、長坂で敗れた劉備と漢津で合流して夏口へ向かった。孫権との連合軍は赤壁の戦いで曹操軍を破り、翌年、劉備は関羽を襄陽太守・盪寇将軍に任じて長江北方の守備を任せた。劉備が益州へ進むと荊州の留守を単独で預かり、楽進に敗れて敗走もしたが、降ってきた楊儀を使者として劉備のもとへ送り、その才を認めさせた。益州平定後は荊州の軍事総督となった。建安20年(215年)、荊州の領有を主張する孫権が三郡を襲うと、関羽は3万の兵を率いて益陽に布陣し、孫劉同盟が崩れかけたが、魯粛との会談を経て湘水を境に分割することで合意した。魯粛の死後、陸口に着任した呂蒙は表向き関羽と親しく接しつつ、機をうかがった。孫権が子と関羽の娘との縁談を持ちかけた際、関羽は使者を罵倒して断り、孫権を激怒させたという。
建安24年(219年)、劉備が漢中王となると、関羽は前将軍・仮節鉞に任じられ、樊城の曹仁を包囲した。8月の豪雨で漢水が氾濫し、于禁の七軍が水没すると、関羽は于禁を降伏させ、龐徳を斬って、その武威は中原を震わせた。曹操は遷都まで考えたが、司馬懿らが諫め、孫権を利用して背後を突かせる策をとった。関羽は陸遜の謙った手紙に油断して江陵や公安の守備兵を前線へ送ってしまい、呂蒙は日頃関羽と折り合いの悪かった糜芳と士仁を寝返らせて両拠点を奪った。将兵は家族の無事を知って戦意を失い、四散した。麦城へ逃れた関羽は建安24年12月初旬(220年1月)、臨沮県の章郷で退路を断たれて息子の関平らと捕らえられ、処刑された。『呉歴』によれば、首は曹操のもとへ送られ、諸侯の礼で洛陽に葬られたという。
関羽を失った劉備は呉征討に出たが、夷陵の戦いで大敗し、223年に白帝城で病没した。景耀3年(260年)、劉禅は関羽に「壮繆侯」と追諡した。後世には神格化され、関帝として現在も中国で広く信仰されている。