HISTORICAL PERSON · 1553年没

エドワード6世 (イングランド王)

テューダー朝のイングランド王(在位1547〜1553年)。ヘンリー8世の嫡出男子で唯一存命し、9歳で即位した。伯父シーモアが護国卿として実権を握り、礼拝統一法などで国教会の脱カトリックが進んだ。

生涯
1553年没
死亡地
イギリス連邦(グリニッジ区 / プラセンティア宮殿)
出生地
イギリス連邦(ハンプトン・コート宮殿)
出典
世界地図
イギリス連邦(グリニッジ区)

伝記

エドワード6世は、1537年10月12日にハンプトン・コート宮殿で生まれたテューダー朝のイングランド国王である。父はヘンリー8世、母は王の3番目の妃ジェーン・シーモアで、異母姉にメアリー1世とエリザベス1世がいる。待望の男子誕生に王国は喜びに沸き、教会ではテ・デウムが歌われた。10月15日に洗礼を受け、コーンウォール公とチェスター伯の称号を与えられたが、母は10月23日に病み、翌夜に亡くなった。赤ん坊は健康で、父は宝石のように大切にしたと伝えられる。4歳のとき危険な熱病にかかったが、近年は病弱だったという通説に異論を唱える歴史家もいる。

6歳から正式な教育を始め、リチャード・コックスとジョン・チークに学び、語学、書き方、哲学、自由学芸を修めた。エリザベスの師でもあるロジャー・アスカムの授業も受け、フランス語、スペイン語、イタリア語を学んだ。幾何学も学び、リュートやヴァージナルなどの楽器を弾き、地球儀や地図を集め、貨幣の問題にも通じていたと言われる。宗教教育は改革派的で、方向づけたのは大主教クランマーとされる。1549年には教皇を反キリストとする論考を書いたが、幼いころは、ミサの挙行や聖人の像・遺物への崇敬など、カトリック的な要素も多かった。

1547年1月28日に父が没し、9歳で即位した(戴冠は2月20日)。ヘンリー8世は、幼い息子を少数の権臣が操ることを警戒し、顧問団に集団で補佐させるよう定めていたが、母方の伯父エドワード・シーモアがこれを握りつぶした。即位直前にサマセット公位を創設し、自ら護国卿となって事実上の支配者となった。ヘンリー8世は生前、息子をスコットランド女王メアリー・ステュアートと結婚させ、スコットランドをイングランドの管理下に置く構想をもっていた。シーモアはこれを引き継ぎ、スコットランドに攻め込んで、幼い女王を連れ去ろうとした。しかし1548年、女王の母でスコットランドの摂政王太后だったメアリー・オブ・ギーズが、娘をフランスの王太子フランソワと結婚させたため、計画は実現しなかった。1549年には経済問題と社会不安から暴動と反乱が起き、スコットランドとの戦争は、初め順調だったものの、和平のためにブーローニュから撤退して終わった。

エドワード6世の治世では、礼拝統一法が2度制定され、共通祈祷書も発布されて、イングランド国教会の脱カトリックが進んだ。ミサの廃止や聖餐の改革が行われ、その設計者は大主教クランマーであった。1552年、エドワード・シーモアが反逆罪で処刑されると、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握り、若い王に政治教育を行った。1553年2月に病んだ王は、病が致命的だと知り、カトリックへの逆戻りを防ぐため、王位継承に関する文書をまとめた。ヘンリー8世が1543年に定めた継承順位はエドワード、メアリー、エリザベスだったが、ダドリーは、5月21日に自分の六男ギルフォードをエドワードの従姉フランセス・ブランドンの娘ジェーン・グレイと結婚させ、ジェーンを後継に指名する遺言を、床にある王に迫った。王はこれを了承し、7月6日に15歳で世を去った。

その4日後、ダドリーはジェーンの即位を宣言したが、政府はメアリーをロンドンへ呼び戻し、7月19日に民衆の支持を受けてメアリーが帰還した。ダドリー父子とジェーンは反逆罪で斬首された。エドワードの宗教改革はメアリーによって覆されたが、のちのエリザベスの宗教政策の土台となった。19世紀にはマーク・トウェインの『王子と乞食』の主人公にされた。

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