HISTORICAL PERSON · 190年代没

孫堅

後漢末の武将で、孫策・孫権の父。海賊を欺いて名を上げ、黄巾の乱や涼州の反乱の鎮圧で功を挙げ、長沙太守として区星の反乱を平定した。董卓討伐に挙兵し、陽人の戦いで呂布らを破って洛陽に入った。

生涯
190年代没
死亡地
中華人民共和国(湖北省 / 襄陽市)
出生地
中華人民共和国(富陽区)
出典
世界地図
中華人民共和国(湖北省)

伝記

孫堅は、中国後漢末期の武将である。字は文台、揚州呉郡富春県の人で、妻は呉夫人、子に孫策・孫権らがいる。春秋時代の兵家、孫武の子孫と伝えられる。熹平元年(172年)、17歳のときに立ち寄った銭唐県で海賊が略奪をしているのに出会い、見晴らしのよい場所に立って大軍を指揮して包囲するかのような身振りをした。海賊は大軍が攻めてくると思って逃げ出し、この件で名を知られた孫堅は役所に召されて仮の尉となった。

その後は司馬となり、会稽郡で起きた許昌の乱を鎮圧した。揚州刺史の臧旻の上奏で塩瀆県丞に任じられ、のち盱眙県丞、下邳県丞と転任した。光和7年(184年)に黄巾の乱が起こると、中郎将の朱儁のもとで参戦し、渠帥の波才の撃破に加わった。宛城の攻略では自ら先頭に立って城壁を登り、西南方面の官軍を指揮して大勝し、別部司馬となった。中平3年(186年)には涼州で辺章と韓遂が起こした反乱の鎮圧に張温の参軍として従軍した。董卓がたびたび軍規に違反するのに腹を立て、処刑するよう張温に進言したが退けられ、後にこれを漏れ聞いた董卓は張温と孫堅を深く憎むようになった。反乱軍は漢の大軍が来ると聞いて散り散りになり、孫堅は議郎となった。

次いで荊州南部の区星の反乱の鎮圧を命じられ、長沙太守として赴任し、さまざまな計略でこれを鎮め、反乱を助けた零陵・桂陽にも進出した。廬江太守陸康の一族が賊に攻められて救援を求めてくると、郡の境を越えて救いに向かい、賊を退かせた。この功で烏程侯に封ぜられた。各地で人材を得て実戦経験を積んだ孫堅の軍団は、やがて軍閥化していった。

洛陽で董卓が実権を握り、少帝を廃して献帝を立てると、初平元年(190年)に袁紹を中心として諸侯が董卓討伐の兵を挙げ、孫堅もこれに応じた。北上の途中、日ごろ自分を侮辱してきた荊州刺史の王叡を殺し、南陽太守も殺して、魯陽の袁術に会い、破虜将軍代行・豫州刺史を領することになった。曹操軍も孫堅軍も董卓配下の徐栄に敗れたが、孫堅は袁術の支援もあってすぐ立て直し、初平2年(191年)の陽人の戦いで呂布と胡軫を敗走させ、都尉の華雄を討ち取った。袁術に讒言する者があって兵糧が止まったときには、自ら魯陽に赴いて訴え、兵糧を手配させている。董卓が李傕を使者にして懐柔しようとしたのは断った。董卓が洛陽を焼いて長安へ逃れたあと、孫堅は洛陽に入り、荒らされた陵墓を修復して魯陽へ戻った。その後は袁術とともに、袁紹が送った周喁らと豫州を争い、反董卓連合は事実上瓦解した。

初平3年(192年)、袁術の命で劉表を攻め、黄祖を破って襄陽を包囲したが、峴山に一人でいるところを黄祖の部下に射殺された。享年37歳とされる。没年や死因には異説があり、初平2年とも4年ともいわれ、伏兵の落石に当たったとする説もある。桓階が遺体を劉表から取り戻し、兄の子の孫賁が軍勢を引き継いで棺を曲阿へ送り、のち袁術の傘下に入った。黄龍元年(229年)、皇帝となった孫権は父の廟を長沙に建てた。容貌は立派で闊達な性格であり、人にまねのできない行いを好んだという。陳寿は、勇敢で剛毅な忠義の烈士としつつ、軽はずみで結果を急ぎすぎ、それが身を滅ぼしたと評している。裴松之は、同時代に義をもって立った人々のなかで最も忠烈の志があったと述べ、公孫瓚は、董卓を蹴散らして御陵や霊廟を掃き清めた功績は計り知れないと評した。

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