HISTORICAL PERSON · 1987年没

ポーラ・ネグリ

サイレント映画時代に妖艶なヴァンプ(悪女)役で大スターとなったポーランド出身の女優。ワルシャワで人気の舞台女優でもあった。

生涯
1987年没
死亡地
アメリカ合衆国(テキサス州 / サン・アントニオ)
出生地
ポーランド共和国(リプノ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(テキサス州)

伝記

ポーラ・ネグリは、1897年1月3日、ロシア帝国領ポーランドのリプノで、バルバラ・アポロニア・ハウピェツとして生まれた女優である。母エレオノーラはポーランド人で、没落した貴族の家の出だったと本人は語った。父はスロバキア出身のブリキ職人だったが、ロシアに対する革命運動に加わって逮捕され、シベリアに流刑になった。残された母子はワルシャワに移り、母が料理人として働いて、貧しい生活を支えた。敬虔なカトリックの母に育てられ、帝室のバレエ学校に入り、「白鳥の湖」の小さな白鳥の踊りで初舞台を踏み、独奏の役にまで進んだ。しかし結核のためにバレエを続けられなくなり、ザコパネの療養所で3か月を過ごした。その間に、イタリアの詩人アダ・ネグリにちなんで、「ポーラ・ネグリ」の芸名を名乗った。ポーラはアポロニアの短縮形である。

療養所から戻ると、ワルシャワの演劇学校の試験に合格し、1912年に小劇場で初舞台に立った。1914年に卒業し、同じ年に最初の映画『官能の奴隷』に出た。第一次世界大戦が終わるころには、ワルシャワで人気の舞台女優となっていた。1917年に、ドイツの演出家マックス・ラインハルトの舞台『寵姫ズムルン』の舞姫役で、ベルリンへ移った。この舞台で、映画会社UFAで喜劇を作っていたエルンスト・ルビッチと出会った。ルビッチが彼女を主役に、大規模な作品を作ることを会社に承知させ、1918年の『呪の眼』が成功し、二人の共同作業はそれ以降、毎回規模を増していった。『カルメン』『パッション』『山猫ルシカ』『灼熱の情花』などを作り、彼らの作品は世界中で成功した。1922年にパラマウント社と契約し、ハリウッドにヨーロッパの女優として初めて招かれた。

1920年代には、エキゾチックでグラマラスな容姿で人気を博し、チャールズ・チャップリンとの婚約や、ルドルフ・ヴァレンティノとのロマンスも話題になった。1926年にヴァレンティノが亡くなると、彼と結婚する約束をしていたと明かし、棺を運ぶ列車に付き添って、駅に着くたびに写真家のために大げさなポーズを取った。友人たちは結婚の予定などなかったと主張し、売名行為だと非難した。そのころから、キャリアは下降を始めた。強いポーランド訛りの英語は受け入れられず、当たり役の悪女も流行遅れになった。1927年に、グルジアの王子だと称する軍人と結婚したが、夫が彼女の財産を投機に使い、1929年の株の大暴落で大損して離婚した。

トーキーへの移行後、1932年にRKOの映画に主演し、劇中歌「パラダイス」がヒットして、全米で興行を行った。1934年からはヨーロッパに戻って、ドイツ映画に出演し、『マヅルカ』や『夜のタンゴ』の劇中歌をヒットさせた。その成功でヒトラーに気に入られ、プロパガンダ映画への出演を再三求められたが、嫌ってフランスに移った。1940年にアメリカに戻り、1951年に市民権を取得した。ビリー・ワイルダーが持ちかけた『サンセット大通り』の主演は、役柄に難色を示して断った。最後の作品は、1964年の『クレタの風車』である。1957年にテキサス州サンアントニオに移り、1987年8月1日、脳腫瘍に続く肺炎のため、90歳で同地で亡くなった。治療は拒んでいた。

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