HISTORICAL PERSON · 234年没

献帝 (漢)

後漢の第14代で最後の皇帝。董卓に擁立されて長安へ遷都し、のち曹操の庇護を受けて許へ移るが実権は曹操に握られた。220年に曹丕へ禅譲して後漢は滅亡し、この形式が後世の手本となった。

生涯
234年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

献帝は、後漢の第14代にして最後の皇帝である。諱は協。霊帝の次男で、少帝劉辯の異母弟にあたる。母は側室の王栄で、霊帝の寵愛を受けて協を産んだが、何皇后の嫉妬を受けて毒殺されたという。母を失った協は、嗇夫の朱直に暴室で養育され、一年後に霊帝の生母の董太后に引き取られたため、董侯と呼ばれた。霊帝には何皇后が産んだ長男の劉辯がいたが、暗愚だったため皇太子に立てられておらず、大臣たちは利発な協を皇太子にするよう進言した。しかし霊帝は何皇后を寵愛し、外戚の何進にも遠慮して、協を後継者に指名できなかった。蹇碩は董太后らとともに何進の排除と協の擁立を目指したが、失敗した。

189年4月に霊帝が崩御すると劉辯が即位して少帝となり、協は勃海王に封じられ、7月に陳留王に移された。幼いながら父帝の死を悼み悲しむ様子に、大臣たちは皆心を痛めたという。8月、何進が十常侍に暗殺されると袁紹らが挙兵して宮中は混乱し、張譲らは少帝と陳留王を連れて洛陽の北門から逃げた。一行は夜に黄河のほとりの小平津に着き、そこで盧植らが中常侍を討って二人を保護した。蛍の微かな光を頼りに数里を歩き、民家で手に入れた露車に乗ったという。洛陽の北の郊外で一行を出迎えたのが、并州牧の董卓だった。少帝が董卓の兵におびえて啜り泣いたのに対し、陳留王は冷静で、経緯を尋ねられると筋道立てて答えた。董卓はこれを賢明だと見て、また祖母の董太后が自分と同族でもあることから、陳留王を皇帝に立てようと考えたという。

9月、董卓によって少帝が廃されて弘農王となり、陳留王が皇帝に擁立された。弘農王はまもなく董卓に殺され、兄の死を聞いた献帝は玉座から降りて人目もはばからず嘆き悲しんだという。190年に袁紹ら各地の刺史や太守が董卓に反して兵を起こすと、朝廷は長安への遷都を決め、献帝は長安へ移された。192年4月、董卓は呂布に暗殺されたが、その後長安は董卓の残党に攻め落とされ、政治の実権は李傕や郭汜に奪われた。194年に元服し、亡き生母に霊懐皇后の称号を贈って改葬した。195年には李傕と郭汜の内紛に巻き込まれ、李傕の軍営に連れ去られて宮殿が焼かれ、郭汜が攻めたときには夥しい矢が身近にまで届いたという。

196年7月、楊奉や董承らに擁されて洛陽に帰り、8月に曹操の庇護を受けて許に遷都した。以後、曹操は漢室の庇護者として諸侯に号令する一方、献帝の周辺から馴染みの者を排し、自分の息のかかった者を置いた。献帝は曹操に、大事に思うなら補佐してほしい、そうでないなら情けをかけて退位させよと告げ、曹操は冷や汗をかいて以後参内を控えたという。王権は安定したが実権は曹操に握られ、曹操は丞相、魏公、魏王へと地位を上げた。214年には皇后の伏寿が殺害され、献帝は曹操の娘の曹節を皇后にせざるをえなかった。

220年に曹操が没して曹丕が魏王を継ぐと、曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で、献帝は同年のうちに帝位を譲り、後漢は滅亡した。この禅譲の形式は、後世の王朝交代の手本となった。曹節は皇后の玉璽を手放すことを拒み続けたが、使者を激しく詰り、玉璽を放り投げて涙を流したと伝えられる。献帝は山陽公に封じられ、皇帝だけが使う一人称の「朕」を許されるなど厚遇を受けた。劉備は献帝が殺されたという誤報を受けて皇帝を称し、孝愍皇帝の諡を贈った。献帝は山陽公夫人となった曹節と暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去し、魏は孝献皇帝と諡した。孫の劉康が山陽公を継ぎ、爵位は西晋でも存続したが、309年に劉秋が漢趙の将軍汲桑の軍に殺されて断絶した。

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