HISTORICAL PERSON · 396年没

孝武帝 (東晋)

東晋の第9代皇帝。謝安の補佐のもと前秦を淝水の戦いで撃退し全盛期を築いたが、のち酒色に溺れ、寵愛した張貴人の手引きで寝所にて殺害された。

生涯
396年没
死亡地
晋(江蘇省 / 建康)
出生地
梁(建康)
出典
世界地図
晋(江蘇省)

伝記

孝武帝は、東晋の第9代皇帝である。簡文帝の第6子で、姓は司馬、諱は曜、字は昌明という。簡文帝と側室の李陵容の間に生まれた。生年は362年とされ、夜明けに生まれたため、曜と昌明という夜明けを意味する名が付いたという。母は元は織物に携わる下働きだったが、術者が世継ぎを産むと告げたため、父の司馬昱が側室に迎えたと伝えられる。翌年には弟の司馬道子が生まれた。長兄の司馬道生が廃嫡され、他の兄たちも早世したため、孝武帝が父の後継者となった。興寧3年(365年)に会稽王に封じられた。

咸安2年(372年)に父の簡文帝が崩御した際、大司馬の桓温への禅譲問題があり、なかなか跡を継げなかった。侍中の王坦之、尚書僕射の王彪之、謝安らの尽力によってようやく即位した。桓温は不満を抱いたが、謝安が禅譲を引き延ばしたこともあって失意のうちに、寧康元年(373年)に死去した。即位したとき孝武帝はまだ年少で、重臣の謝安が補佐した。治世の初めには、従来の土地に対する課税を人頭税に改める税制改革を行った。375年には王法慧を皇后に迎え、古典を学び、詩も作るようになった。太元元年(376年)に元服して親政を始めたが、実際の政務は引き続き謝安が担った。皇后の王氏は380年に亡くなり、孝武帝はその後、皇后を立てなかった。381年には仏教の経典を学び始め、宮中に仏教の学びの場を設けて僧を住まわせた。

この間、北の前秦は東晋にとって大きな脅威だった。373年に前秦は梁州と益州を奪い、379年には襄陽などを奪った。太元8年(383年)には前秦の苻堅が中国統一をめざして侵攻してきた。しかし謝安と、一族の謝玄・謝石らによって撃退された。これが淝水の戦いで、苻堅の軍は退却に失敗して混乱し、苻堅の弟で宰相の苻融も失うなどして大敗した。前秦はこの敗北をきっかけに崩れ始め、二度と東晋の脅威にならなかった。こうして孝武帝の治世前期に、東晋は全盛期を迎えた。

太元10年(385年)に謝安が、太元13年(388年)に謝玄が相次いで没すると、謝一族は朝廷の中心から去った。孝武帝が成長したこともあり、親政を行い、弟の会稽王司馬道子がそれを補佐する体制がとられた。しかし孝武帝は次第に酒と女色に溺れて国政を省みなくなり、宮殿の奥で酒を飲み続け、外部の者との接触もなくなったという。補佐する司馬道子も謝安に比べて政治能力に欠け、奢侈な生活で国庫を傾けたとされ、東晋は治世後半から急速に衰えていった。

太元21年9月庚申(396年11月6日)、孝武帝は清暑殿で後宮の女たちと酒宴を開いていた。寵愛する張貴人に「お前の年では、そろそろお払い箱にしなくてはな。朕はもう少し若いのが欲しくなったよ」と言ったとされる。酔った上の冗談だったといわれるが、張貴人は30歳に近く、自分が廃されると思い込んだ。孝武帝が酔って眠り込むと、張貴人に買収された宦官の手引きで入った召使により、厚い布団で息を塞がれて殺された。享年35歳。張貴人は臣下を集め、天子は急に息を引き取られたと述べ、司馬道子が暗愚だったこともあり、罪を問われなかった。皇位は長男の安帝司馬徳宗が継いだが、重い精神の障害があったため司馬道子が政権を握り、皇族の権力も弱まっていった。孝武帝は東晋で実際に皇帝の権力を行使した最後の皇帝とされ、のちの安帝と恭帝は摂政や軍閥に支配されることになる。

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