HISTORICAL PERSON · 1989年没

ジョン・ヒックス

イギリスの経済学者。ミクロ経済学とマクロ経済学の全域に貢献し、1972年にケネス・アローとともにノーベル経済学賞を受賞した。

生涯
1989年没
死亡地
イギリス連邦(グロスタシャー / ブロックリー)
出生地
イギリス連邦(ロイヤル・レミントン・スパ)
出典
世界地図
イギリス連邦(グロスタシャー)

伝記

ジョン・リチャード・ヒックスは、1904年4月8日に生まれ、1989年5月20日に没したイギリスの経済学者である。ミクロ経済学とマクロ経済学の全域に貢献し、「ヒックス卿」と呼ばれ、また、彼以降に経済学の中心がイギリスからアメリカに移ったことから、「英国最後の大経済学者」などとも称される。1972年にケネス・アローとともにノーベル経済学賞を受賞した。

イングランドのウォリックシャー州に生まれた。三人きょうだいの長子で、父は地元紙の記者、母はドロシー・キャサリン・スティーヴンスだった。1917年から1922年まで、ブリストルのクリフトン・カレッジでラテン語とギリシア語を学び、数学の高度な教育も受けた。1922年にオックスフォード大学のベイリオル・カレッジに入り、主に数学を専攻したが、1923年に専攻を「哲学・政治学・経済学」に変えた。1926年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの臨時の職を得て、1930年に講師となった。1935年に、シドニー・ウェッブの娘で、財政学者のアーシュラ・ウェッブと結婚した。

1935年から1938年までケンブリッジ大学に移り、『価値と資本』を執筆した。1938年から1946年はマンチェスター大学の教授を務め、1946年にオックスフォード大学のナフィールド・カレッジに移って、研究を行った。1952年から1965年には、ドルモンド政治経済学教授として教え、1964年にはナイトに叙された。1965年から1971年は、オール・ソウルズ・カレッジのリサーチ・フェローとして活動した。

最も広く知られた業績は、ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』を体系化したIS-LM理論である。利子率の関数である投資と、国民所得の関数である貯蓄の均衡から描かれる曲線と、貨幣の需要量と供給量の均衡から描かれる曲線の交点として、利子率と国民所得の値を導けることを示した理論である。しかし、ケインズ自身は、投資が利子率だけの関数ではなく、不確実性の中にある予想利潤率の関数だと考えていた。ヒックスは、ケインズの考えを軽視していたとして、この理論と『一般理論』との乖離を認めており、厳密にケインズの理論を解釈しようとするポストケインジアンからは、「ヒックスの理論はケインズ経済学ではなくてヒックス経済学である」と揶揄された。それでも、難解な『一般理論』の本質のほとんどを、集計量から得られる二つの曲線で表現したこの理論は、現代のマクロ経済学の基礎となった。

1939年の『価値と資本』では、無差別曲線の理論やこれを用いた効用最大化の理論、一般均衡の静学的安定性の条件、補償変分や等価変分などの消費者余剰の概念を明確にし、新厚生経済学の確立に尽力した。この著書は、サミュエルソンの『経済分析の基礎』と並んで、序数的効用に基づくミクロ経済学の基礎を確立した。1951年の『景気循環論』では、乗数理論と加速度原理を統合した景気循環論を定式化し、1965年の『資本と成長』では新古典派成長理論と異なる独自の成長均衡モデルを、1973年の『資本と時間』ではオーストリア学派の資本成長を一般化した理論を定式化した。

1972年秋、滞在中の大阪でノーベル賞の受賞の知らせを聞き、半信半疑で二度聞き直したという。ただし、アローと同時受賞と知ると、落胆したとされる。受賞については、すでに脱却した仕事に対する栄誉であり、複雑な気持ちだと述べ、『経済史の理論』に対して与えられていたほうがうれしかったと語っている。

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