伝記
キプリアヌスは、3世紀の北アフリカ、カルタゴの司教である。3世紀の初め、200年ごろに生まれ、258年9月14日に没した。初期キリスト教の重要な著述家で、ラテン教父に数えられる。カトリック教会、聖公会、ルーテル教会、正教会、非カルケドン派で聖人として崇敬されている。日本のカトリック教会では、カルタゴの聖チプリアノと表記される。ラテン語で書かれた著作の多くが現存し、巧みな修辞のために、ヒエロニュムスやアウグスティヌスが現れるまでの西方キリスト教の最も傑出したラテン語著述家と見なされた。
北アフリカの、おそらくカルタゴの、裕福で名のある異教徒の家に生まれ、古典的な教育を受けた。本来の名はタスキウスといい、改宗に導いてくれた司祭を記念してカエキリウスの名を加えたという。改宗する前は、カルタゴで法曹の集まりの有力な一員で、弁論家であり、法廷弁護士、修辞学の教師でもあった。「放蕩の青年時代」ののち、35歳のころに洗礼を受け、その後、財産の一部をカルタゴの貧しい人々に施した。身分については、地方都市の有力者層だったのか元老院階層だったのか議論があるが、前者とする見方が多く、殉教が彼自身の別荘で起きたことも、その根拠とされる。改宗の時期は、245年から248年の間とも、246年ごろとも言われる。改宗直後には、テルトゥリアヌスの模範に近い著作を書き、聖書とテルトゥリアヌスの著作を深く理解していた。
洗礼から間もなく助祭、続いて司祭に叙され、248年7月から249年4月のあいだに、先代の司教ドナトゥスの死後、民衆の喝采によってカルタゴの司教に選ばれた。彼の慈善を記憶していた貧しい人々に支持された選出だったが、財産や外交の才、文才のゆえに、司祭の一部は反対し、5人の司祭が異を唱えた。その一人フェリキッシムスは、のちに彼と争い、ノウァトゥスとフェリキッシムスの分裂を起こすことになる。
250年、デキウス帝が帝国全土で神々に供犠を行うよう命じる勅令を出し、迫害が始まった。キプリアヌスは、処刑の危険と向き合わず、身を隠した。臆病だと見る聖職者もいたが、彼は、信徒を羊飼いのいない状態にしないために逃れたのであり、遠くから導き続けるのは神の意志に沿うと述べた。逃亡はローマの教会にも訴えられ、非難の手紙が届いたが、神の命令に従ったのだと答えている。隠れ家から多くの書簡を書き、信徒を導いた。この迫害で棄教した信徒を教会にどう復帰させるかが問題となった。最初は厳しい態度でのぞんだが、のちに軟化させ、251年、適切な悔い改めののちの復帰を認めた。このことで、ノウァティアヌスやローマ教皇ステファヌス1世と論争になった。この論争は、ウァレリアヌス帝の迫害でキプリアヌスが逮捕され、まもなく殉教したことで中断された。彼が疫病の様子を記したことから、「キプリアヌスの疫病」の名がある。
思想の面では、独創的な思想家というより、実践的な教会指導に優れると評価される。書簡で「教会の外に救いなし」と主張し、教会の基礎は司教にあり、すべての教会の司教が「一つの司教職」に属することが、教会の一致を保証すると説いた。主著とされる著作は251年に書かれた。
同じ年に亡くなった人物
- ノウァティアヌス (対立教皇) (258年没)
- シクストゥス2世 (ローマ教皇) (258年没)
- 諸葛誕 (258年没)
- ローマのラウレンティウス (258年没)
同じ地域に関係する人物
- ベジ・カイドセブシ (2019年没)
- Saint Aurelius (430年没)
- Abdelmajid Lakhal (2014年没)
- イブン・サイード・マグリビー (1276年没)
- Leo Nardus (1955年没)