HISTORICAL PERSON · 1991年没

マイルス・デイヴィス

アメリカのジャズ・トランペット奏者、作曲家。『カインド・オブ・ブルー』『ビッチェズ・ブリュー』などで知られ、時代ごとに音楽性を変えてジャズ界を牽引した。

生涯
1991年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / サンタモニカ)
出生地
アメリカ合衆国(アルトン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

マイルス・デイヴィスは、1926年5月26日にイリノイ州オールトンに生まれ、翌年イーストセントルイスへ移った、アメリカのジャズ・トランペット奏者、作曲家、編曲家である。父は音楽に造詣の深い歯科医、母はピアノとヴァイオリンをこなして教会でオルガンを教えたこともあるという、裕福で音楽の身近な環境で育った。13歳の誕生日に父からトランペットを贈られて演奏を始め、高校在学中の15歳でユニオン・カードを手に入れてセントルイスのクラブに出演するようになった。母はプロの音楽家になることに反対していたが、16歳ごろに最初の結婚をし、生活費を稼ぐ名目である程度の音楽活動を許されるようになったという。

18歳のころ、ビリー・エクスタインのバンドがセントルイスに来た際、病気で休んだ第3トランペットの代役を務め、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーと共演した。その後ニューヨークへ向かってジュリアード音楽院に入学したが、ほとんど授業を受けないまま中退し、パーカーを探し当てて1年間同じ部屋で暮らしながら演奏を共にした。1945年に公式の初レコーディングを経験し、1947年には初のリーダー・セッションを行った。ビバップから出発した彼は新たな可能性を求め、1948年に編曲家のギル・エヴァンスやジェリー・マリガンらと出会い、後のウェスト・コースト・ジャズに大きな影響を与えた『クールの誕生』を制作した。

1950年代には麻薬の問題で一時演奏から遠ざかったが立ち直り、1954年にプレスティッジ・レコードから出した『ウォーキン』が高く評価されて、ハード・バップの第一人者の地位を固めた。1955年にはジョン・コルトレーンらと第1期クインテットを結成し、ニューポート・ジャズフェスティバルでの演奏をきっかけにコロムビア・レコードと契約、1956年に移籍第1作『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』を発表した。プレスティッジとの残りの契約を済ませるため、4枚分のアルバムを短期間で録音したのは「マラソン・セッション」と呼ばれる。1957年にはルイ・マル監督の映画『死刑台のエレベーター』の音楽を手がけた。1959年の『カインド・オブ・ブルー』では、コード進行ではなくスケールを指標とするモード・ジャズの方法を示し、革新性と演奏の完成度を併せ持つ代表作となった。

1960年にコルトレーンが脱退するとメンバーが定まらない時期が続いたが、1963年にハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスらが加わり、1964年秋にウェイン・ショーターを迎えて確立した第2期クインテットは「黄金クインテット」と呼ばれる。1968年には8ビートとエレクトリック楽器を取り入れた『マイルス・イン・ザ・スカイ』を発表し、1970年にはファンクやロックの要素を大胆に盛り込んだ2枚組の大作『ビッチェズ・ブリュー』を世に出して、70年代のジャズの方向性を決定づけた。健康状態が悪化し、1975年2月の大阪公演を最後に長い休息期間に入ったが、1980年に活動を再開し、1981年に復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』を制作した。

1980年代にはフュージョンやポップ色を強め、1986年にはコロムビアからワーナーへ移籍した。1990年にはヒップホップのイージー・モー・ビーを迎えた新アルバムの制作を始めたが、1991年9月28日、肺炎と呼吸不全などの合併症のため、カリフォルニア州サンタモニカの病院で亡くなった。このアルバムはイージー・モー・ビーにより大きく手を加えられ、『ドゥー・バップ』として同年にリリースされた。

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