伝記
ミハイル・ネヘミエヴィチ・タリは、1936年11月9日にラトビアの首都リガで生まれたチェスの選手で、世界チャンピオンである。ユダヤ人の家庭に生まれ、独立国だったラトビアが1944年にソビエト連邦に併合されたことで、ソ連の市民となった。医師だった父に7歳のときチェスを教わったとされ、戦争中に遊び方を覚えて頭角を現したとも伝えられる。1949年からは、アレクサンドル・コブレンツが生涯にわたってコーチを務めた。1950年代にはロシア語・ロシア文学を学んだが、最終的に選んだ職業はチェスだった。
1951年に初めてラトビア選手権の成人の部に出場して19戦9点、翌1952年は17戦10点という成績だった。1953年、16歳でその選手権を制し、1955年にはソ連選手権の準決勝をリガで勝ち抜いた。1957年には20歳でソ連チャンピオンとなり、この年にグランドマスターの称号も得ている。翌1958年にも連覇を果たし、同年のポルトロージュでの インターゾーナル大会で優勝して、1959年の候補者決定戦への出場権を得た。この大会はユーゴスラビアの三つの都市で行われ、タリは28点中20点で首位に立った。スミスロフに勝ち越し、ボビー・フィッシャーには4戦全勝した。一方でケレスには1勝3敗と負け越し、ペトロシアンとは4局とも引き分けている。この優勝で世界王者ボトヴィニクへの挑戦権を得た。
1960年、タリは世界王者ミハイル・ボトヴィニクを破り、23歳でチェスの世界チャンピオンとなった。当時最年少の王者であり、この記録は1985年にガルリ・カスパロフが22歳で王者となるまで破られなかった。しかし翌1961年のリターンマッチでボトヴィニクに敗れ、タイトルを失った。健康が思わしくなかったこともあり、その後は世界王者への挑戦者となることはなかった。もっとも、その後もインターゾーナル大会に8回出場し、候補者戦のサイクルには1962年、1965年、1968年、1980年、1985年の5回加わったが、決勝には進めなかった。故郷のラトビア選手権には、世界王者になってからは1965年まで戻らず、この年に2度目の優勝を果たした。ソ連選手権では通算6回優勝し、1988年にはブリッツの世界選手権も制した。
無謀とも思える駒の犠牲を払って勝つ攻撃的な棋風から、「チェスの魔術師」「リガの魔術師」と呼ばれた。直感と創造性を重んじ、徹底した変化の読みよりも戦術を好んだとされ、ボリス・スパスキーと並んで、ソ連以外の国でも人気があった。86局を負けなしで戦った時期があり、その後にも93局または95局(数え方による)無敗の記録を打ち立てている。
病弱でありながら、晩年まで試合に出続けたとされる。1959年ごろから病気を繰り返し、病院の部屋でブリッツを指し、ホテルの部屋で寝たまま公式戦を戦うこともあったという。故郷リガではチェスの専門誌の編集にも携わった。自戦記『ミハイル・タリの生涯と棋譜』や『タル対ボトヴィニク1960』は名著と評され、「史上最強のチェス・ライター」とも呼ばれた。1992年6月28日、腎不全のためモスクワの病院で55歳で亡くなった。2006年からは、モスクワで毎年、記念のグランドマスター大会「タリ記念」が開かれている。
同じ年に亡くなった人物
- フェオドール・シャリアピン・ジュニア (1992年没)
- ローズマリー・サトクリフ (1992年没)
- ジョヴァンニ・ファルコーネ (1992年没)
- トッド・アームストロング (1992年没)
- マルガリータ・アリゲール (1992年没)
同じ地域に関係する人物
- フェリックス・ジェルジンスキー (1926年没)
- エフゲニー・フルノフ (2000年没)
- リュドミラ・グルチェンコ (2011年没)
- セルゲイ・コロリョフ (1966年没)
- セルゲイ・ソボレフ (1989年没)