HISTORICAL PERSON · 1992年没

アレクサンデル・ドゥプチェク

チェコスロヴァキアの政治家。共産党第一書記として「人間の顔をした社会主義」を掲げ、報道や表現の自由を含む改革を進め、「プラハの春」を生んだ。

生涯
1992年没
死亡地
チェコ共和国(プラハ)
出生地
スロバキア共和国(Uhrovec)
出典
世界地図
チェコ共和国(プラハ)

伝記

アレクサンデル・ドゥプチェクは、1921年11月27日にスロヴァキアで生まれ、1992年11月7日に没したチェコスロヴァキアの政治家である。ドプチェクとも表記される。父シュテファンは大工で、アメリカで数年間働いた際に知り合ったパヴリナと結婚し、夫婦はアメリカ共産党に入党した。帰国後はウフロヴェーツに定住し、1921年11月にアレクサンデルが生まれた。1925年3月、一家は産業協同組合で働くため列車でキルギスへ向かったが、辿り着いたのは草原の空き地で、安全な宿泊施設もなく、レンガで住宅を建てることになった。野営地では発疹チフスとマラリアが蔓延したという。のちに一家はニジニ・ノヴゴロドに移った。1938年、スターリンの命令でソ連に留まるにはチェコスロヴァキアの市民権を放棄せねばならなくなり、一家はスロヴァキアに帰国した。

帰国後はトレンチーンに定住し、家族全員で反ファシスト抵抗組織運動に加わった。アレクサンデルは鍵師の見習いとして働き、当時は非合法だったスロヴァキア共産党に入党した。父は1942年5月に党中央委員会委員となったが、7月19日に逮捕されて懲役28か月の判決を受け、1945年2月にマウトハウゼン強制収容所へ移送されながらも生き残った。1944年8月にスロヴァキア民衆蜂起が起こると、アレクサンデルは兄ユリウスとともに参加し、右足に銃弾を受けて負傷した。ユリウスは1945年1月にドイツ軍に撃ち殺された。1945年9月には幼馴染のアンナ・ボルセコヴァーと結婚した。

1948年2月のクーデターを経て共産党が権力を掌握すると、同年5月の選挙で国民議会議員に選ばれ、1949年からスロヴァキア共産党の活動に本格的に従事した。トレンチーン地域委員会第一書記などを経て、1953年1月にバンスカー・ビストリツァ地域委員会第一書記となり、1955年夏にはモスクワで政治学を学んだ。1958年にブラチスラヴァ地域委員会第一書記に就き、1963年にスロヴァキア共産党中央委員会第一書記となった。この間、全権を握っていたアントニーン・ノヴォトニーとは憲法改正案を巡って対立した。1960年代に経済が低迷してノヴォトニーへの支持が失われるなか、1967年12月19日の中央委員会本会議では数人がその辞任を要求した。1968年1月に不信任決議が可決され、同月5日、ドゥプチェクがその後任として共産党の第一書記に就任した。

ドゥプチェクは「社会主義が勝利を収めたのち、社会の変革が始まる」と宣言した。これが「人間の顔をした社会主義」と呼ばれる自由化計画であり、経済の自由化に加え、報道・表現・移動・宗教の自由や複数政党制の導入も含まれていた。「プラハの春」と呼ばれたこの改革で、1968年3月4日に検閲が廃止され、集会の自由も認められた。しかし8月20日、ソ連が主導する軍事侵攻によって改革は終わりを迎えた。1969年4月17日にグスターフ・フサークが後任となり、「正常化体制」が始まった。1989年の選挙に出馬したドゥプチェクは連邦議会議員に再選され、同年12月28日に連邦議会議長に就任した。1992年9月、乗っていた自動車が交通事故に遭って重傷を負い、11月7日に死去した。

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