HISTORICAL PERSON · 1992年没

オリヴィエ・メシアン

フランスの作曲家、オルガン奏者。20世紀の現代音楽を牽引し、多くの著名な弟子を育てた。世界中の鳥の声を採譜した鳥類学者としての業績もある。

生涯
1992年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / クリシー)
出生地
フランス共和国(アヴィニョン)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

オリヴィエ・メシアンは、1908年12月10日にフランス南部のアヴィニョンで生まれた作曲家、オルガン奏者、ピアニスト、音楽教育者である。父ピエールはリセの英語教師でシェイクスピアなどの翻訳を出版し、母は詩人のセシル・ソヴァージュだった。母はメシアンが音楽院に在学中の1927年に亡くなり、大きな衝撃を与えた。1930年の歌曲集『3つの歌曲』の第2曲には、母の詩が歌詞に使われている。第一次世界大戦中は家族とともにグルノーブルの叔父のもとへ疎開し、5年間を過ごして、フランス・アルプスの自然に強い印象を受けた。のちの1936年にはその近くのイゼール県プティシェに山荘を購入し、生涯そこで主な作曲活動を行った。

父の復員後はナントで専門的に音楽を学び始め、教師のひとりジャン・ド・ジボンから贈られたドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』のスコアに開眼したと後に語っている。1919年、11歳で一家はパリに移り、パリ国立高等音楽院に入学した。1924年に和声科で2位の賞を、1926年にフーガと対位法科、1927年に伴奏科で一等賞を得たほか、モーリス・エマニュエルのもとで古代ギリシャのリズムや民族音楽の旋法を学んだ。マルセル・デュプレにオルガンを、ポール・デュカスに管弦楽法を、ヴィドールに作曲を学び、約11年の研究の集大成として1930年に作曲科の一等賞を得て卒業した。

1931年、22歳でパリのサントトリニテ教会のオルガニストに就き、この職を最期まで60年以上務めた。そこでの即興演奏は世界中で評判となった。1932年にヴァイオリニストのクレール・デルボスと結婚し、1935年に『キリストの昇天』、翌年に『主の降誕』が初演された。『主の降誕』では、インドのリズムに由来する語法を初めて取り入れた。アンドレ・ジョリヴェらと若きフランスを結成し、1937年にはオンド・マルトノを用いた『美しい水の祭典』をパリ万国博覧会のために書いている。第二次世界大戦で徴兵され、1940年6月にドイツ軍の捕虜となったが、ゲルリッツの捕虜収容所で『世の終わりのための四重奏曲』を作曲して初演した。1941年3月に解放され、占領下のパリ音楽院で和声を教えた。

戦後は『ハラウィ』『トゥランガリーラ交響曲』『5つのルシャン』のいわゆるトリスタン三部作へ進み、1952年に鳥類学者ジャック・ドラマンの指導を受けてからは鳥の歌を体系的に採集し、『鳥のカタログ』などを生んだ。1947年に音楽院の楽曲分析科の教師、1966年に作曲科の教授となり、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ヤニス・クセナキスらを育てた。クセナキスには、数学を知るのになぜ作曲に応用しないのかと勧めたと伝えられる。1962年に日本を訪れて『7つの俳諧』を書き、1983年にはオペラ『アッシジの聖フランチェスコ』を完成させた。1978年に音楽院を退官し、1985年に京都賞を受けた。1959年にレジオン・ドヌール勲章オフィシエ、1987年にグラン・クロワを受け、1967年末にはフランス学士院芸術アカデミーの会員に選ばれている。音を聴くと色彩や模様を連想する共感覚の持ち主と自ら述べ、その連想を楽譜に書き込むことも多かった。1959年に先妻クレールが亡くなり、1961年にイヴォンヌ・ロリオと再婚している。1992年4月27日に癌で没し、プティシェの山荘に近い地に埋葬された。墓石は鳥の形で、『ハラウィ』の楽譜が刻まれている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物