伝記
マルクス・ピアウォニウス・ウィクトリヌスは、ガリア帝国の第4代皇帝である。生年は不明で、270年か271年に没した。在位は268年または269年から270年または271年までとされるが、貨幣や碑文の研究からは、269年の末、12月10日より前に帝位に就いたとみられている。
家系は非常に裕福だったとされ、名前からは先祖が帝国西部の属州の出であったことがうかがえる。母はウィクトリア(ウィトルウィアとも)といい、ガリア帝国を建てたポストゥムスの親戚、おそらくはいとこだったという。トリーアでは、モザイクを備えた彼の邸宅が発掘され、都市貴族の中でも指折りの豪壮なものだったとされる。若いころはローマ皇帝ガリエヌスの下で騎兵隊に入ったとも伝えられ、ポストゥムスが反乱を起こした後、その側に付いた。264年にはローマ軍のガリア遠征に加わったが、そこで目にした虐殺に心を動かされ、配下の部隊の一部とともにポストゥムス側へ移ったとする説もある。『ヒストリア・アウグスタ』の筆者トレベリウス・ポリオは、彼を軍事の活動に長けた人物と評している。ポストゥムスの下では親衛隊の隊長に当たる親衛隊長官に昇り、266年からその職にあったとされ、267年にはポストゥムスとともに執政官を務めた。ライン国境の防備強化やゲルマン人の侵入の撃退に関わり、ガリエヌスの侵攻に備えてポストゥムスが彼を共同統治者に任じたとする記述もあるが、確かな裏づけは乏しいとされる。ガリエヌスがガリアに来て反乱の鎮圧を図った際には、ゲルマン人の傭兵を補助兵として集めて戦ったという。
269年、ポストゥムスはモグンティアクムで殺された。このときウィクトリヌスは、反乱を起こしたラエリアヌスを追っていて不在だった。皇帝を守るべき長官が都を離れていたことが、ポストゥムスの死を招き、後継にマリウスが選ばれる流れにも影響した可能性があると指摘されている。しかしマリウスも同じ年のうちに殺され、ウィクトリヌスはトリーアの軍団に推挙されて皇帝となった。ガリアとブリタンニアの軍団はこれを認めたが、ヒスパニアの軍団は認めなかった。翌270年の1月1日には執政官に就任している。
治世の大半は、ガリア帝国から離れてローマの支配に戻った地域を取り戻そうとする試みに費やされた。しかしローマ皇帝クラウディウス・ゴティクスの討伐軍の侵入を許し、ヒスパニアとローヌ川よりローマ寄りの領土を失った。一方で、アウグストドゥヌム(現在のオータン)を包囲したローマ軍に対しては、7か月にわたる籠城の末にこれを防いだ。個人的な資質によって、配下の14個軍団の支持を得たともいわれる。トリーアは引き続き帝国の首都だったが、居所はコロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシウム(現在のケルン)に移したとされる。また、パルミラの女王ゼノビアがウィクトリアと文通していたことから、パルミラとの同盟を図ったという推測もある。
270年または271年の初め、部下の一人アッティティアヌスに殺された。アッティティアヌスの妻を奪ったためとされる。母ウィクトリアは、軍団に多額の金を払って歓心を買い、息子を神格化することで、その死後も権力を保った。彼女の働きかけにより、テトリクスがテトリクス1世として皇帝に即位した。ウィクトリヌスには息子がいたが、父の死から間もなく軍隊に殺されたと伝わる。父子は、『ヒストリア・アウグスタ』の三十人僭主にそれぞれ数えられている。
同じ年に亡くなった人物
- プロティノス (270年没)
- クラウディウス・ゴティクス (270年没)
- グレゴリオス・タウマトゥルゴス (270年没)
- クィンティッルス (270年没)
- 中川王 (270年没)
同じ地域に関係する人物
- ハンス・フォン・フンク (1979年没)
- コンラート・フォン・ホーホシュターデン (1261年没)
- マルセル・ブロータス (1976年没)
- ヘルベルト・ルンゲ (1986年没)
- ハンス・シェーファー (2017年没)