伝記
トゥルグト・オザルは、1927年10月13日、東アナトリアのマラティアに生まれたトルコの政治家である。3人兄弟の長男で、父メフメト・スッドゥクは銀行員、母ハフィゼは小学校の教師だった。父はイマームとして修業を積んだ後、国営の農業銀行の支店長となり、両親は敬虔なイスラム教徒だったと語られている。小学校はシリフケ、中学校はマルディン、高校はカイセリで学んだ。1950年にイスタンブール工科大学の電気工学科を卒業し、国家水利庁や電力調査庁などで働き、1952年から1953年には、アメリカで電気エネルギーと経営工学を学んだ。1961年に兵役を終えると、国家計画庁で働き、1966年に長官に就任して、技術官僚として頭角を現した。1971年から1973年まで世界銀行に出向し、帰国後は民間企業で働いた。1979年に成立したデミレル政権では、総理府長官兼国家計画庁長官代理として、トルコの経済運営を事実上任された。
1980年9月12日に軍部がクーデターを起こすと、デミレル政権は退陣し、全政党は活動を禁止された。オザルは、軍の関係者と良好な関係を築いていたため、軍部が擁立したウルス政権で、経済担当の副首相に抜擢された。1982年7月に、経済政策の意見の不一致から辞任した。1983年の民政移管に際して、5月20日に、中道右派の祖国党を結成した。祖国党は、11月6日の総選挙で、軍が推薦する政党を破り、400議席中211議席を獲得して、議会の単独過半数を制した。オザルは首相に選ばれ、1987年の総選挙でも祖国党は単独で過半数を獲得して、第2次オザル政権が発足した。政党の離合集散が激しいトルコの政局にあって、約10年間の長期政権を実現した。1988年には党大会で暗殺未遂事件に遭った。
首相としては、軍政時代から進められてきた経済の自由化を推進し、公共部門の民営化、輸出産業の振興、外資の積極的な導入などを実施した。トルコのGDPはプラス成長に転じたが、大財閥が恩恵を受ける一方で、インフレや貧富の格差が進んだ。1985年のイラン・イラク戦争では、イラク軍の攻撃から、イランに住む日本人を救出するため、トルコ航空機の派遣を決断したことでも知られる。1987年にはヨーロッパ共同体への加盟を申請した。1985年にイラン、パキスタンと経済協力機構を結成し、1992年に黒海沿岸国など11か国による黒海経済協力機構の結成にも主導的な役割を果たした。軍との良好な関係を維持して、軍の政治介入を巧妙に避け、1987年には、軍の推薦する候補者を退けて参謀総長を任命した。国是である政教分離の原則を緩め、学校教育に宗教文化の科目が加わり、公立学校でのスカーフの着用禁止も緩和された。
1989年には、ジェラル・バヤル以来29年ぶりに、文民出身の大統領に選ばれた。大統領としても、1991年まで続いた祖国党政権に、影響力を保った。1993年4月17日、在任中に心臓発作で死去した。後任の大統領には、首相のデミレルが選ばれた。死因をめぐっては、軍部による毒殺との説が囁かれてきたが、2012年の解剖による検証で、遺体から毒物が検出されたと伝えられるが、死因ははっきりしないとする資料もある。
同じ年に亡くなった人物
- 野坂参三 (1993年没)
- ヘディ・ヌイラ (1993年没)
- Axel Freiherr von dem Bussche-Streithorst (1993年没)
- ドン・バークスデール (1993年没)
- ペッカ・ニエミ (1993年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェマル・ギュルセル (1966年没)
- ゲリメル (553年没)
- アフェト・イナン (1985年没)
- ハトゥ・チュルパン (1956年没)
- Burhan Sargin (2023年没)