伝記
サアディーは、13世紀のイランを代表する詩人で散文家である。1210年頃にシーラーズに生まれ、1291年または1292年に没したとされる。若いころに諸国を旅したのち故郷へ戻り、多くの詩と散文を残して同地で亡くなった。代表作は『ゴレスターン』(薔薇園)と『ブースターン』(果樹園)で、後世の人々は親しみを込めて「シェイフ」、すなわち長老と呼ぶ。「サアディー」が雅号であることは、抒情詩ガザルの結びの句に詠み込まれていることから明らかだが、本名については古い写本の間で情報が一致せず、諸説がある。
生まれたのは、イラン南西部ファールス州の州都シーラーズである。当時この町はセルジューク朝系のアタベク政権サルグル朝の首都であり、雅号もこの王朝の君主に由来すると考えられ、今日では『果樹園』を献呈した第6代君主アブー・バクルにちなむとする説が有力である。幼いころに父を亡くし、祖父や叔父の世話になりながら勉学に励んだ。その後、学問の中心地であったバグダードに赴き、ニザームルムルクが創設したニザーミーヤ学院で、神学や法学、アラビア語文学などイスラーム諸学を修めた。『果樹園』の一部の写本は、高名な神秘主義思想家スフラワルディーに師事したと伝える。学業を終えると遊学の旅に出たが、バグダードを発ったのは1226年頃と思われる。
この時代のイランは激動のさなかにあり、1220年代にはモンゴルの侵攻でホラズム・シャー朝が滅び、周辺の諸政権はその脅威にさらされた。シーラーズでは君主アブー・バクルがモンゴル帝国に服従したことで、ファールス地方は劫略を免れたとされる。サアディー自身は、30年にわたってインドや中央アジア、アラビア半島、エジプト、エチオピア、モロッコまでを放浪したと述べている。しかし時系列が不自然だったり事実と合わなかったりする点があり、今日では、挙げた全ての土地を実際に巡ったとは考えられていない。たとえば『薔薇園』第5章のソームナート寺院をめぐる記述では、ゾロアスター教徒とヒンドゥー教徒を混同しており、実際に訪れた者にはあり得ない誤りだとされる。
1256年にシーラーズへ帰って詩作を始めた。それまでは全く無名の存在で、帰還するまでの数十年間、自作を公表していなかったようである。1257年に『果樹園』を、翌1258年に『薔薇園』を相次いで発表した。『果樹園』は約4,000対句からなり、『薔薇園』も同規模の作品であるため、放浪の間に書き貯めて推敲を重ね、帰郷後に一気に仕上げたと思われる。作品は教訓、警句、逸話を内容とし、今もイラン文学史上の最高傑作といわれる。帰還の時期は、フレグの西方遠征とイルハン朝の樹立にあたり、イルハン朝の財務官僚の頂点にいたシャムスッディーン・ジュヴァイニーと弟アターマリクの兄弟とは、互いを父、息子と呼ぶほど親密であったという。
晩年はシーラーズの郊外に庵を結んで隠遁し、1291年頃にそこで没した。隠遁後も、赴任してきたイルハン朝の王侯たちから尊崇を受けたと伝えられ、死後には墓廟が建てられた。この廟はサアディーヤと呼ばれ、現在もシーラーズの北東郊外にあって、市の観光地の一つとなっている。2002年からは、イラン暦のオルディーベヘシュト月1日、西暦の4月21日頃が、サアディーの記念日と定められている。
同じ年に亡くなった人物
- トゥラ・ブカ (1291年没)
- Guillaume de Beaujeu (1291年)
- サラーミシュ (1291年没)
- ジャンヌ・ド・ブロワ=シャティヨン (1291年没)
- Herman VII of Baden-Baden (1291年)
同じ地域に関係する人物
- クセルクセス1世 (紀元前465年没)
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- アルダシール1世 (241年没)
- シャープール1世 (272年没)
- Sayed Murad Khan (1789年没)