HISTORICAL PERSON · 274年没

陸抗

中国三国時代の呉の武将で、陸遜の次男。父の死後に兵を継ぎ、孫権の疑惑を弁明で解いた。西陵の戦いでは歩闡の反乱に二重の包囲陣で備え、羊祜や楊肇の晋軍を退けて鎮圧し、孫晧の下で柱石となった。

生涯
274年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(江蘇省 / 蘇州市)
出典
世界地図
中華人民共和国(江蘇省)

伝記

陸抗は、中国三国時代の呉の武将である。字は幼節、呉郡呉県の出身で、226年に生まれ、274年の秋に没した。陸遜の次男で、母は孫策の娘である。長兄の陸延は早世したという。245年(赤烏8年)、20歳のときに父が死去し、後を継いで建武校尉となり、父の配下の兵5000人を預かって武昌に駐屯した。

父の棺を奉じて故郷へ帰る途中、陸抗は建業の宮殿に立ち寄って、官職を授けられたことへの礼を述べた。孫権は陸遜への疑いをなお解いておらず、かつて楊竺が弾劾した20条にもわたる疑惑について、使者を送って陸抗を詰問した。陸抗は使者と他の賓客を交えずに一対一で会い、臆することなく一つひとつ筋道を立てて弁明した。そのため孫権の疑いもようやく解けた。251年(太元元年)、療養のため建業に戻った陸抗が任地へ戻るとき、孫権は涙を流して別れを惜しみ、かつて讒言を信じて陸遜の信義を裏切ったことを詫び、送りつけた詰問の書簡をすべて焼き捨てるよう頼んだという。

孫亮の代の253年に諸葛恪が誅殺されると、陸抗は妻がその姪であったため離縁した。257年、魏の諸葛誕が寿春で反乱を起こして呉に救援を求めると、陸抗は柴桑の督として救援に赴き、魏の偏将軍らを破った功で征北将軍に昇進したという。孫休の代の259年には鎮軍将軍となり、西陵から白帝城までの軍事を統括した。264年には蜀漢が魏に降伏した後の永安城(白帝城)を、3万を率いて包囲したが、旧蜀将の羅憲の抵抗で半年たっても落とせず、魏の援軍が到着して退却した。孫晧の時代になると、族兄の陸凱が左丞相として補佐し、269年に没する際に陸喜と陸抗を重用すべきだと述べたという。孫晧は陸凱を憎んで家族を迫害しようとしたが、陸抗を恐れて、その存命中は実行できなかったとされる。270年夏に大司馬の施績が死ぬと、陸抗は西陵・夷道・信陵・楽郷・公安の諸軍事を統括した。彼は17箇条の方策を上疏し、孫晧の寵臣の何定や宦官の専横も諫めた。

272年秋8月、西陵督の歩闡が呉に背いて晋に降った。陸抗は吾彦らを連れて西陵城へ急行し、城の防備は自分が整えたものだと知っていたため長期戦を覚悟して、広大な二重の包囲陣を突貫工事で築かせた。諸将が早期の攻撃を唱えて反対したが、一度だけ許した攻撃が失敗に終わると、命令に従った。晋の羊祜が江陵に迫ると、部将たちは江陵の防衛に回るよう勧めたが、陸抗は、西陵を奪われれば南方の異民族にも影響が及ぶとして動かなかった。江陵の周辺では水路を堰き止め、羊祜が船で食糧を運ぼうとすると堤を切らせて妨げ、晋軍の輸送に大きな損害を与えた。楊肇の軍を大いに破ると晋軍は救援を諦めて退却し、陸抗は西陵城を陥落させた。歩闡とその一族らは処刑されたが、ほかの数万の将卒は赦免した。大功を誇らなかったため、将士はいっそう彼を敬ったという。

273年春に大司馬・荊州牧に任じられたが、274年夏に病が重くなると、領土防衛の必要性と募兵制の問題点、その改革案を上疏し、国情の不安を憂えた。同年秋に死去し、陸晏が跡を継ぎ、兵は陸景・陸玄・陸機・陸雲に分けられた。陸晏と陸景は280年の晋の呉征伐で戦死し、陸機と陸雲は西晋を代表する文学者となったが、八王の乱に巻き込まれて一族は滅んだという。陳寿は「よくその身を律し、先見の明をもち、父の遺風を受け継いだ」と評した。羊祜とは敵でありながら互いを認め合い、酒や薬を贈りあったといい、これが「羊陸之交」の成語になった。

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