伝記
セルゲイ・ボンダルチュクは、1920年9月25日にウクライナのヘルソン県ベロズョールカで生まれ、ソビエト連邦、ウクライナ、ロシアで活動した俳優、映画監督、脚本家である。正教徒の農民であった父フョードルと母タチヤーナの間に生まれ、生まれたとき父は赤軍に従軍していた。深く信仰を持つ母が、聖セルギイ・ラドネジスキーにちなんで名を付け、ヘルソン近郊の受胎告知修道院で洗礼を受けさせたという。当時のウクライナはロシア内戦、ウクライナ内戦のさなかにあり、一家は戦乱の収まったロシアへ移って、南ロシアのエーイスクやタガンロークで少年時代を過ごした。
のちに演劇を志し、1937年にタガンローク劇場で初舞台を踏んだ。1938年にタガンロークの学校を卒業し、1942年までロストフ・ナ・ドヌーの演劇学院で学んだ。その後は独ソ戦に徴兵され、カフカース戦の初期に加わったのちドン方面軍に編入されて、1942年10月から12月にかけてスターリングラードで戦った。戦功で叙勲され、1946年に名誉除隊となっている。戦後は全連邦国立映画大学を卒業し、1948年にセルゲイ・ゲラシモフ監督の『青年親衛隊』で映画デビューを果たした。1951年に出演した『タラス・シェフチェンコ』はスターリンからも高く評価され、翌1952年、32歳でソ連人民芸術家の称号を受けた。これは同称号の保有者として最年少の記録である。1956年にはシェイクスピア原作の『オセロ』で主役を演じ、この作品はカンヌ国際映画祭で監督賞を受けた。この作品で共演した女優イリーナ・スコブツェワとは、のちに結婚している。
1959年には初の監督作『人間の運命』が公開された。ショーロホフの短編小説にもとづくこの作品は高い評価を受け、レーニン賞を授与された。1960年にはロベルト・ロッセリーニ監督のイタリア映画『ローマで夜だった』にも出演した。最大の仕事となったのが、トルストイの長編小説『戦争と平和』の映画化で、監督を務めるとともに、自ら主人公のピエール・ベズーホフ伯爵を演じた。1966年6月には第一部の日本公開に合わせ、共演者のリュドミラ・サベーリエワやヴャチェスラフ・チーホノフ、妻のイリーナらと来日し、翌日に東京プリンスホテルで記者会見を行っている。1967年に全編が完成し、ソ連だけでなく西側諸国でも公開され、アカデミー賞外国語映画賞を受けた。
1970年にはソ連とイタリアの合作による歴史大作『ワーテルロー』を監督し、同じ年にソビエト連邦共産党に入党した。1975年には『祖国のために』の監督と脚本を担当し、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映された。1982年には『世界を揺るがした十日間』を下敷きに『赤い鐘』を制作した。最後の作品は、ショーロホフの大河小説『静かなドン』を英語で映像化したテレビシリーズで、1992年から1993年にかけて撮影された。だが制作に関わったイタリアの会社をめぐって内容の論争が起き、撮影テープは銀行に保管されたまま使われず、死後の2006年に再発見されてロシアで放映された。
1994年10月20日、74歳でモスクワで死去した。死因は心筋梗塞とされ、亡くなる前には修道司祭ティーホン・シェフクーノフから告解と聖体拝領を受けたという。遺体は功労者が眠るモスクワのノヴォデヴィチ墓地に葬られた。最初の妻との間に生まれた娘ナタリヤは女優、映画監督となり、『惑星ソラリス』に出演した。イリーナとの息子フョードルは俳優、映画監督となっている。
同じ年に亡くなった人物
- ジャラモギ・オギンガ・オディンガ (1994年没)
- リチャード・シング (1994年没)
- ビリー・ライト (1994年没)
- ニコラス・ゴメス・ダビラ (1994年没)
- リンゼイ・アンダーソン (1994年没)
同じ地域に関係する人物
- グリゴーリ・チュフライ (2001年没)
- キリル・モスカレンコ (1985年没)
- イワン・コーネフ (1973年没)
- イリナ・ゴドゥノヴァ (1603年没)
- カール・ヒルペルト (1948年没)