伝記
聖マウリティウス(モーリス)は、3世紀のローマ軍で伝説的なテーバイ軍団を率いたエジプト人の軍人で、この殉教者集団のなかでもとりわけ広く崇敬される聖人である。モーリッツ、モリス、マウリッツなど、さまざまな名でも呼ばれる。いくつもの職業や土地、王国の守護聖人とされている。287年に没したと伝わる。
聖人伝によれば、彼は250年にエジプト上流のテーバイで生まれ、ルクソールのあたりで育った。ローマ軍の兵士となり、昇進を重ねてテーバイ軍団の指揮官となり、約1,000人の兵を率いた。初期のキリスト教がローマ帝国への脅威とみなされていた時代に、彼は自らがキリスト教徒であることを公言していた。
軍団は全員がキリスト教徒で、皇帝マクシミアヌスがバガウダイの反乱を鎮めるのを助けるため、エジプトのテーバイからガリアへ呼び寄せられた。軍団はアルプスの大サン・ベルナール峠を開通させる任務を負って派遣された。戦いの前に、異教の神々に犠牲を捧げ、皇帝に敬意を表するよう命じられた。マウリティウスはローマへの軍務上の忠誠は誓ったが、神への奉仕はすべてに優先すると述べ、理由なき殺戮はキリスト教徒の兵には考えられないと語った。彼と部下はローマの神々を拝むことを拒んだ。
マクシミアヌスが現地のキリスト教徒を殺すよう命じたときも、彼らは拒んだ。皇帝は部隊の処罰を命じ、兵の10人に1人を殺す十分の一刑を行った。さらに命令が下ったが、マウリティウスに励まされた兵たちは従わず、2度目の十分の一刑が命じられた。同じキリスト教徒を攻撃することを拒んだテーバイの兵に対し、マクシミアヌスは残る全員の処刑を命じた。この出来事の場所はスイスのアガウヌムで、現在はサン・モーリスと呼ばれ、サン・モーリス修道院がある。以上は、リヨン司教エウケリウス(434年ごろから450年ごろ)が同僚の司教サルウィウスに宛てた公開書簡に記された最古の殉教の記録による。別の伝えでは、軍団が命令を拒んだのは、破壊したばかりの町に罪のないキリスト教徒が住んでいたと知ったあとだったとも、ローマの神々への供犠を拒んだために皇帝が処刑させたともいわれる。
のちにマウリティウスは神聖ローマ皇帝たちの守護聖人となった。926年には、ハインリヒ1世が、マウリティウスの槍、剣、拍車と引き換えに、現在のスイスのアールガウ州をサン・モーリス修道院に譲った。剣と拍車は1916年までオーストリア・ハンガリー皇帝の戴冠式で用いられた。929年にはマクデブルクで帝国会議が開かれ、同じころマウリティウスにちなむ修道院も創設された。通常、全身に甲冑をまとった姿で描かれ、イタリアでは赤い十字を付けた姿である。民間伝承では聖槍の伝説と結びつき、ウィーンの聖槍には彼の名が刻まれている。サン・モーリツの町や、フランス語圏の多数のサン・モーリスという地名の由来でもある。彼にちなむ宗教施設はフランスなどヨーロッパに650を超え、騎士団もいくつも彼に捧げられた。フランスでは52の町や村が彼の名を負っている。
同じ年に亡くなった人物
- クィンティヌス (287年没)
- セバスティアヌス (287年没)
- Khosrov II of Armenia (287年没)
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