伝記
ホスロヴ2世は、3世紀後半のアルメニアの王で、アルサケス朝に属したとされる人物である。ただし、その治世について確かなことはほとんど知られておらず、限られた手がかりから歴史家が再構成したものにすぎない。287年に暗殺されたと考えられている。
古い史料でアルメニアの3世紀の出来事に関して名が挙がる王は、勇敢王(大王とも)ホスロヴと、その子で大王と呼ばれるティリダテス(トルダト)の二人だけである。このため3世紀の年代を整理しようとしたハコブ・マナンディアンやシリル・トゥマノフは、のちに一人にまとめられた複数の王がいたとみなし、ホスロヴ2世もその一人に数えた。
トゥマノフの再構成では、ティリダテス2世がサーサーン朝のシャープール1世の侵攻を受け、252年にローマ帝国へ逃れた。ティリダテスの息子たちはシャープール側につき、シャープールは自分の息子ホルミズド・アルダシールをアルメニア王とした。ホルミズド・アルダシールは270年に父を継いでサーサーン朝の王位に就いたが、治世は一年にすぎず、アルメニアは兄弟のナルセに任せたらしい。279年から280年にかけてナルセと皇帝プロブスが交渉した結果、ティリダテス2世の子ホスロヴが、ローマの支配下にあった西部のアルメニアの王とされ、東部はナルセが保ったという。ホスロヴは287年まで在位し、兄弟のティリダテスに殺されたとされる。ホスロヴの幼い子ティリダテスはローマに連れ出され、298年のニシビス和約でローマが勝利したのち、アルメニアの王位に就けられたという。
マナンディアンの説では、ホスロヴは272年か273年に、シャープール1世の死を受けて王位に就いた。そして皇帝カルスの東方遠征のころにローマの覇権を認めたとされる。284年にディオクレティアヌスが即位してから世紀末まで、近東ではローマもペルシアも優位に立てず情勢は不透明だった。マナンディアンは、ホスロヴが親ローマ政策をとってサーサーン朝の王の怒りを買い、暗殺されたと考える。この記憶は、アガタンゲロスの史書では勇敢王ホスロヴがパルティア人アナクに殺された話として、エリシェの史書ではホスロヴが兄弟たちに殺された話として残っているという。マナンディアンはエリシェの伝えのほうが事実に近いとみて、殺害は287年だった可能性があるとする。なお、ナルセのパイクリ碑文にある「王ティルダト」の記述から、ティリダテスはすでに287年に王位に就いていたと考える研究者もいる。
一方、ホスロヴ2世を認めない再構成もある。それによれば、大ホスロヴと呼ばれる人物は実はティリダテス2世で、その治世のあとにサーサーン朝による占領が続き、290年代に息子のティリダテス3世が王位に戻ることで終わったとされる。
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