伝記
マルセイユのヴィクトルは、290年ごろに没したとされるキリスト教の殉教者である。エジプト出身の殉教者ともいわれ、カトリック教会、東方正教会、東方諸教会で聖人として崇敬されている。生年は不明で、フランス語の記述には没年を303年または304年とするものもあり、時期には揺れがある。
伝承によれば、ヴィクトルはマルセイユにいたローマ軍の将校で、偶像崇拝を公然と非難した。ローマ軍の将校だったという点は共通するが、来歴には諸説がある。皇帝の護衛隊の将校で、皇帝マクシミアヌスがマルセイユを訪れた際にこの町に来たとする説や、マルセイユのローマ軍の指揮官で、信者たちに皇帝の来訪の危険を知らせたとする伝承、さらにはテーベ軍団の虐殺を生き延びた人物とする見方もある。迫害は288年ごろ、あるいは303年2月に始まったとされ、帝国全体で多くの犠牲者を出した。
ヴィクトルは長官のアステリウスとエウティキウスの前に引き出され、のちに皇帝マクシミアヌスのもとへ送られたという。俸給を受け取ることを拒み、軍をやめると脅し、自分はキリスト教徒だと宣言して、神々への犠牲を拒んだ。両腕を背中で縛られ、町中を引き回されて辱められた。再び裁きの場に出ても従わず、「私は犠牲をささげない。それは被造物ではなく創造主に捧げるものだ」と述べたとされる。すると護民官アステリウスが平手打ちをし、兵士たちが棍棒で殴り、革の鞭で打たれたうえ牢に入れられた。
牢の中で、ヴィクトルはロンギヌス、アレクサンデル、フェリキアヌスの三人の兵士を改宗させた。三人は後に斬首された。伝承によっては、牢が超自然の光で満たされたのを見て、三人が自ら改宗したともいう。ヴィクトルはその後、再び裁判にかけられ、ユピテルの像や祭壇に香をささげることを拒んだ。そして足で蹴り倒した。皇帝は石臼ですりつぶすよう命じたが、ヴィクトルが生きているうちに石臼が壊れた。最後は斬首されたと伝えられる。
マルセイユのキリスト教徒たちは遺体を回収し、墓地になっていた古いギリシア人の採石場に急ぎ葬った。四世紀にはヨハネス・カッシアヌスがその場所に修道院を建て、これがのちにベネディクト会の修道院、小バシリカとなるサン・ヴィクトル修道院で、南フランスの重要な聖地になった。ヴィクトルと三人の兵士の祝日は7月21日である。ヴィクトルはエストニアの首都タリンの守護聖人でもあり、聖ニコラス教会の主祭壇にはその生涯と殉教の場面が描かれている。
同じ年に亡くなった人物
- 司馬炎 (290年没)
同じ地域に関係する人物
- エドゥアール・ステファン (1923年没)
- ジャン=ジャック・マルセル (2014年没)
- マリー・タリオーニ (1884年没)
- アンドレ・ルデュック (1980年没)
- ピュテアス (紀元前310年没)