伝記
スピロ・セオドア・アグニューは、1918年11月9日、メリーランド州ボルチモアに生まれたアメリカ合衆国の政治家である。ボルチモア郡長、メリーランド州知事を経て、リチャード・ニクソン政権で第39代副大統領を務めた。父セオドアはギリシャからの移民で、故郷ではオリーブの栽培に関わる貧しい家だったとされ、1897年(1902年とする説もある)にアメリカへ渡り、ボルチモアで飲食店を営んだ。独学を好み、哲学への関心を持ち続けた人物だったという。母マーガレットはバージニア州の出身で、再婚してセオドアと結ばれた。アグニューは母の望みで正教会ではなく聖公会の洗礼を受けたが、家の中心にいたのは父で、のちに「私は父の影響のもとで育ったことを誇りに思う」と語っている。1920年代に一家は暮らし向きがよくなり、ボルチモア北西部のフォレスト・パークの住宅街に移ったが、1929年の株価暴落で店を失い、1931年には地元の銀行が破綻して貯えも消え、家を売って小さな部屋に移った。
フォレストパーク高校を出て、1937年にジョンズ・ホプキンズ大学に入り、化学を3年間学んだ。その後は陸軍に入隊し、第二次世界大戦ではヨーロッパ戦線に従軍して、フランスとドイツでの功績によりブロンズスター勲章を受けた。出征前の1942年5月27日にエリノア・ジュドファインドと結婚し、のちに4人の子をもうけた。復員後はボルチモア大学のロー・スクールで夜間に学び、昼は食料品店の店員や保険の勧誘員として働いた。1947年に学位を得て、1949年6月にメリーランド州の司法試験に合格し、弁護士となった。のちに郡の都市計画関係の委員を経て、1962年にボルチモア郡長に選ばれ、1967年からは州知事を1期務めた。
1968年の共和党全国大会で、ニクソンから副大統領候補に選ばれた。穏健派としての評判と、市民の騒乱に対して法と秩序を掲げた姿勢が評価されたとされ、ニクソンとともに民主党のハンフリーらを破った。1969年1月20日に就任すると、ベトナム戦争の反戦運動やリベラル派を、頭韻を踏んだ「否定主義の口やかましい人々」といった表現で激しく攻撃し、保守派から強い支持を得た。1972年の選挙でもニクソンと再選されている。
しかし1972年の初めごろから、郡長や知事の時代に請負業者から金品を受け取っていた疑いが浮上し、連邦検察の捜査が始まった。1973年の夏には恐喝や贈収賄、所得税法違反の疑いで調査を受け、当初は容疑を否認して、副大統領は弾劾以外では罷免されないと主張した。だがウォーターゲート事件で窮地にあったニクソン政権は、アグニューを大統領継承の順位から外すことを探っていた。司法取引の結果、1973年10月10日に副大統領を辞任し、1967年に受け取った29,500ドルの所得の申告漏れについて、争わない旨の答弁をした。1万ドルの罰金と3年間の執行猶予を言い渡され、翌1974年にはメリーランド州最高裁判所から弁護士資格を剥奪された。後任の副大統領にはニクソンの指名でジェラルド・フォードが就いた。
その後は公的な活動を控え、外国企業の顧問などをして過ごし、小説と、自分の行動を弁護する回想録を書いた。1981年には、受け取った賄賂を州へ返すよう求める民間人の訴訟で敗れ、利子を含め約25万ドルを支払った。1996年9月17日に77歳で死去した。
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