伝記
クニヴァは、三世紀半ばにローマ帝国へ侵入したゴート人の王(首長)である。在位の年代は定かでない。二五〇年にフィリッポポリス(現ブルガリアのプロブディフ)を攻め落とし、二五一年に帝国から引き上げようとしたところで、皇帝デキウスとその子ヘレンニウス・エトルスクスをアブリトゥスの戦いで殺した。ローマ皇帝が外国勢力との戦闘で戦死したのは、これが初めてだった。
その名はヨルダネスの『ゴート史』にだけ見える。記述によれば、オストロゴタ王の死後、クニヴァはゴート人の部隊と、タイファリ人、バスタルナエ人、カルピ人、アスディンギ・ヴァンダル人などゲルマン系・サルマタイ系の同盟勢力を集めてローマ属州への侵入を準備した。ローマの脱走兵が加わった可能性もあるという。年代は二四九年とされ、ドナウ川を渡って下モエシアに進んだ。別の説明では、二〇〇〇〇人ほどの分遣隊がアルガイトとグンテリクと見られる首領に率いられてマルキアノポリスを包囲したが、成果は上がらなかったようだ。クニヴァ自身の主力はオエスクスで川を渡って東のノウァエへ向かったが、属州総督で、のちに皇帝となるトレボニアヌス・ガッルスに撃退された。そこで南へ進み、ニコポリス・アド・イストルムを略奪した。皇帝デキウスが現れて破ったが、決定的な勝利ではなかった。
その後ゴート人はハエムス山脈を南へ越え、デキウスは、おそらくシプカ峠を通って追い、フィリッポポリスを救おうとした。しかしベロエ(アウグスタ・トラヤナ)で休息中に不意を突かれ、ローマ軍は大敗した。デキウスはオエスクスへ退いたため、クニヴァはモエシアを荒らし、二五一年の夏にフィリッポポリスを陥落させた。皇帝を自称していた司令官ティトゥス・ユリウス・プリスクスの手引きもあったとされる。プリスクスはベロエの敗戦を知り、ゴート人が自分と市を助けると考えたが、その見込みは外れ、市の陥落時に殺されたらしい。侵入者は元老院議員級を含む多数の捕虜と戦利品を抱えて帰途についた。
フィリッポポリスの略奪に奮い立ったデキウスは、ゲルマン人の部隊をいくつか阻み、ドナウ沿いの防備を修復・強化してクニヴァに対抗しようとした。二五一年の七月か八月ごろ、ローマ軍はアブリトゥス付近でクニヴァの軍と交戦した。双方の兵力は不明だが、クニヴァは軍を三つに分け、うち一つを沼地の背後に隠したという。地形をよく知る巧みな戦術家だったと思われる。ヨルダネスとアウレリウス・ウィクトルは、ヘレンニウス・エトルスクスが開戦前の小競り合いで矢に当たって死んだとし、父デキウスは「誰も嘆くな。兵士一人の死は国家に大きな損失ではない」と兵に語ったと伝える。だが、息子は父とともに死んだとする記述もある。
戦後、新皇帝トレボニアヌス・ガッルスはクニヴァが戦利品を持って去るのを許し、その退去を助けた。再び侵入させないために、貢納を支払うことも約束した。ただ、モエシアとパンノニアの総督アエミリアヌスが貢納を拒み、二五三年に新たなゴート人の侵入を招いたが、アエミリアヌスは彼らを撃退した。クニヴァのその後ははっきりしない。ヘルヴィヒ・ヴォルフラムは、二四九〜二五一年の遠征後のローマとの戦いで死んだ可能性を考える。一方、ジョン・ドリンクウォーターは、その後の数十年に姿が見えなくなったのは、ローマの補助金と、ゴート人が他の事に忙しかったためだと述べる。二七一年に皇帝アウレリアヌスはゴート人を破り、王カンナバウデスを戦場で殺した。名の類似からこの王をクニヴァと同一とする見方があり、彼の子とする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- 許褚 (300年(推定))
- Sporus of Nicaea (300年没)
- バーサ (300年没)
- シルバナックス (300年没)
- 聖マルシアル (300年没)
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