HISTORICAL PERSON · 1997年没

鄧小平

1978年から1989年まで中華人民共和国の最高指導者を務めた政治家。改革開放や一人っ子政策で毛沢東時代の政策を転換し、現代中国の路線を築いた。

生涯
1997年没
死亡地
中華人民共和国(北京市)
出生地
中華人民共和国(広安市)
出典
世界地図
中華人民共和国(北京市)

伝記

鄧小平は、1904年8月22日に清の四川省広安県の裕福な客家系の地主の家に生まれ、1997年2月19日に没した中華人民共和国の政治家である。1978年12月から1989年11月まで同国の最高指導者の地位にあり、改革開放や一人っ子政策によって毛沢東時代の政策を転換し、現代の中国の路線を築いた。生まれたときは鄧先聖と名付けられ、私塾では鄧の名も用いた。1920年、16歳でフランス留学のため故郷を離れ、亡くなるまで一度も帰郷しなかった。

留学は、働きながら学ぶ「勤工倹学」という形で、第一次世界大戦直後の不景気のフランスでは苦学の日々だった。パリから遠い市立中等校に入ったが生活費のため半年で辞め、工員や給仕、清掃夫と職を転々としながら貯金し、1922年10月に再び田舎町の中等学校で3か月学んだのち、パリ近郊のルノーの自動車工場で働いた。同じ1922年に中国少年共産党に入り、機関誌の作成を担当して「ガリ版博士」とあだ名された。1925年に中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となると、フランス政府に危険分子と見なされ、1926年1月にパリを離れてモスクワへ渡り、東方勤労者共産大学とモスクワ中山大学で共産主義を学んだ。中山大学では、蔣介石の長男で後の中華民国総統となる蔣経国と知り合い、友人になった。

1927年に帰国してゲリラ活動を始め、紅七軍を政治委員として指揮した。1931年8月の蜂起で根拠地を失った部隊とともに毛沢東の江西ソビエトに合流して瑞金県書記となったが、ソ連留学組が多数を占める党指導部は、毛沢東路線に従う彼を失脚させた。1935年1月に周恩来の助力で中央秘書長に復帰し、長征に参加して八路軍一二九師の政治委員となり、華北で抗日ゲリラ戦を戦った。国共内戦では淮海戦役と揚子江渡河作戦で第2野戦軍政治委員などを務め、1949年10月の中華人民共和国の成立後は西南部の戦いを指導した。1952年に政務院副総理となり、1956年の第8期1中全会で党中央政治局常務委員、中央書記処総書記となった。1957年の反右派闘争では総書記として指揮に当たり、約55万人が迫害を受けた。

大躍進政策の失敗後は国家主席の劉少奇とともに経済の立て直しに携わったが、毛沢東はこれを革命の否定と捉えた。1966年に文化大革命が始まると、「党内第2の走資派」と批判されて失脚し、1968年10月に全役職を追われ、翌年江西省の南昌へ追放されて、トラクター工場や農場で過酷な労働に就いた。党籍だけは剥奪されなかった。1973年3月に周恩来の工作で復活し、12月には党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、総参謀長となった。しかし1976年1月に周恩来が没すると、4月の周恩来追悼デモが弾圧された第一次天安門事件の首謀者とされ、再び全職務を失った。党籍は残り、同年9月の毛沢東の死後、四人組の逮捕を経て、1977年7月に三度目の復活を果たした。

1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のために、中国の指導者としては初めて訪日し、昭和天皇と会見した。工場や新幹線を視察し、日本の科学技術の躍進が後の改革開放の動機になったとされる。同年11月から12月の党中央工作会議と第11期3中全会で、文化大革命が否定され、改革開放路線が決まった。74歳の彼はこの会議で中心的な役割を果たし、最高の役職には就かないまま事実上の最高指導者となったとされる。翌1979年には、香港に隣接する広東省の深圳などに経済特区が設けられ、外資を導入する輸出志向の工業化が進められた。

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