HISTORICAL PERSON · 1598年没

李舜臣

李氏朝鮮の将軍。文禄・慶長の役で朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い、韓国では「救国の英雄」とされる。党争で一時失脚したが、元均の戦死で復権して再び水軍を指揮し、露梁海戦で戦死した。

生涯
1598年没
死亡地
大韓民国(慶尚南道 / 南海郡)
出生地
大韓民国(ソウル特別市)
出典
世界地図
大韓民国(慶尚南道)

伝記

李舜臣は、1545年4月28日(明暦では嘉靖24年3月8日)に生まれ、1598年12月16日に没した李氏朝鮮の武将である。字は汝諧。文禄・慶長の役で朝鮮水軍を率いて日本軍と戦い、後の韓国では「救国の英雄」とされる。死後に贈られた諡は忠武公である。

本貫は徳水李氏で、漢陽の乾川洞に生まれた。のちに領議政となる3歳年上の柳成龍も同じ地の生まれで、幼馴染であった。父が官職に就けなかったため家は貧しく、母方の実家がある忠清南道・牙山の白岩里へ移り、この地が故郷のように扱われた。幼い頃は戦ごっこを好んで大将役に推され、弓矢を常に身近に置き、村の大人でも道理に反すれば率直に諫めたと伝えられる。1565年8月、元保城郡守で武官出身の方震の娘と結婚した。方震は李舜臣の資質を高く評価し、武官の道を勧めたという。

22歳頃から本格的に武芸を鍛え、7年の修練を経た28歳の1572年8月、訓練院の別科の武科を受けたが、騎射の最中に落馬して不合格となった。それでも立ち上がって柳の枝を折り、その皮で傷を縛って最後まで試験を続けたと伝えられる。4年後の32歳で式年武科に丙科4等で及第した。最初の任地は咸鏡道の辺境、東仇非堡の権管で、女真の侵入に備えて堡塁を整え、監司の李後白に統率を評価された。のち漢城の訓練院奉事となったが、上官の徐益による規定外の昇進の働きかけを公平性を理由に拒み、兵曹判書・金貴榮の縁戚を通じた婚姻の提案も断ったとされる。

1580年6月、36歳で全羅道の発浦水軍万戸に任じられ、初めて水軍を指揮した。しかし1582年2月、因縁のあった徐益が軍器敬差官として来て、軍備不備を報告した結果、解任された。その後も、海美では清廉な暮らしで兵士の敬意を集め、咸鏡道では女真との戦いに当たり、造山堡万戸だった1587年には右脚に矢傷を負い、北兵使・李鎰の報告で責任を問われて白衣従軍を命じられたが、翌年の戦功で復権した。1589年に官職へ復帰し、柳成龍らの推薦もあり、異例の昇進として議論を呼びながら全羅左水使に抜擢された。戦争を予見して、1592年1月1日から『乱中日記』を書き始めたとされる。

1592年に文禄の役が始まると、慶尚道水軍は大打撃を受けたが、李舜臣は全羅道水軍を温存した後に出撃し、5月7日の玉浦沖で日本の船団を攻撃した。5月29日に泗川、6月2日に唐浦、6月5日に唐項浦、6月7日に栗浦と勝利を重ね、唐浦では自ら亀甲船を率いて敵旗艦に突入し、日本側の艦船21隻を撃破し、部将の権俊が日本側指揮官の得居通幸を射殺した。唐項浦では偽装退却で26隻の艦隊を湾外へ誘い出して包囲し、栗浦では逆風の中で追撃して5隻を沈め2隻を拿捕したとされる。7月8日の閑山島沖では鶴翼陣を用いて日本の船団に大損害を与え、10月の釜山浦では約130隻を焼き討ちや破壊した。一方で鄭運ら6名が戦死している。1593年には三道水軍統制使となったが、部下だった元均が命令を受ける立場を不満とし、両者の不和は深刻化して、元均は陸上部隊へ転属になった。

のち党争の影響で元均らの勢力から処罰を受けて兵卒に落とされたが、元均が戦死して危機を感じた朝鮮王により復権し、再び水軍を指揮した。最後は露梁海戦で戦死した。

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