伝記
盧武鉉は1946年9月1日、アメリカ統治下の慶尚南道金海郡の貧しい農家に、父盧判石、母李順礼の三男二女の末っ子として生まれた。6歳で千字文を諳んじた神童といわれ、小学校では生徒会長を務め、中学校では成績トップを争った。しかし貧困のため1年の休学を余儀なくされ、高校進学も一度は諦めかけたが、長兄盧英鉉の説得と助力で1963年に名門の高校へ進み、警備員のアルバイトで日銭を稼いだ。卒業後は農協の就職試験に落ち、魚網会社に就職したものの待遇に失望して一か月半で辞め、司法試験への挑戦を決意する。
当時、高卒者には司法試験の受験資格がなかったため、故郷の村外れのぼろ家に手を入れて「磨玉堂」と名づけ、日雇い労働をしながら勉強を続けた。1966年に司法及び行政要員予備試験、1971年に三級公務員の一次試験に合格し、1968年からの兵役をはさんで独学を重ね、1975年に29歳で第17回司法試験に合格した。1977年に大田地方法院の判事となり、翌年には弁護士事務所を開いて、登記や不動産、租税関連の訴訟を中心に、釜山でも稼ぎのよい弁護士として知られた。
転機は1981年、別の弁護士の代理として釜林事件の弁護を引き受け、学生運動に関わったことだった。以後は社会問題への関与を深め、「アスファルト弁護士」と呼ばれる人権派へと変わっていく。1982年には同年に弁護士となった文在寅とともに合同法律事務所を開設し、釜山アメリカ文化院放火事件では被告側の弁護人を務めた。1985年に釜山民主市民協議会の常任委員長となって民主化運動に加わり、1987年には6月抗争を主導し、大宇造船事件では逮捕・拘留も経験した。1988年、金泳三に抜擢されて総選挙に出馬し初当選した。国会では労働委員会で「三銃士」と呼ばれて活動し、第五共和国の不正を追及する聴聞会がテレビ中継されたことで、国民的な人気を得た。
1990年の三党合同には野合だとして参加せず、野党に残った。このため恩師の金泳三に睨まれたとされ、1992年の総選挙、1995年の釜山市長選、1996年の総選挙と落選が続き、1998年の補選でようやく国会に復帰した。2000年にも落選したが、立候補し続ける姿に共感が集まり、支持者組織「ノサモ」が結成された。同年8月には金大中大統領により海洋水産部長官に任命された。2002年には民主党の国民参加型予備選挙で勝ち上がり、鄭夢準との候補一本化を経て、太陽政策の継承や行政首都の移転、7%の経済成長を公約に掲げた。投票前日に鄭夢準が支持を撤回する波乱もあったが、約57万票差で李会昌を破って第16代大統領に当選した。日本統治時代を経験していない世代で初の大統領でもあった。
2003年2月に就任したが、与党は少数派で、のちに主流派が離党して開かれたウリ党を結成するなど苦境が続いた。イラクへの派兵は支持者離れを招き、支持率は急落した。2004年3月には弾劾訴追案が可決されて職務を停止されたものの、世論の反発でウリ党が総選挙に勝ち、5月に憲法裁判所が訴追を棄却して復帰した。自らの政権を「参与政府」と称して改革を目指したが、国家保安法の廃止など多くの改革立法は挫折した。2008年2月に退任し、翌2009年5月23日に投身自殺した。
同じ年に亡くなった人物
- サハン・ドソヴァ (2009年没)
- チャウ・セン・コクサル・チュム (2009年没)
- エドワード・T・ホール (2009年没)
- レネ・ブリアール (2009年没)
- ペドロ・ルイス・デ・オルレアンス・イ・ブラガンサ (2009年没)