HISTORICAL PERSON · 2002年没

エリザベス・ボーズ=ライアン

英国王ジョージ6世の妃で、最後のインド皇后。夫の死後は長女エリザベス2世の即位により、エリザベス王太后と呼ばれるようになった。

生涯
2002年没
死亡地
イギリス連邦(ウィンザー・アンド・メイデンヘッド / ロイヤル・ロッジ)
出生地
イギリス連邦(ヒッチン)
出典
世界地図
イギリス連邦(ウィンザー・アンド・メイデンヘッド)

伝記

エリザベス・アンジェラ・マルグリート・ボーズ=ライアンは、1900年8月4日に生まれ、2002年3月30日に没した、イギリスの王妃(在位1936年12月11日から1952年2月6日)であり、インド皇后(在位1936年から1947年)である。夫のジョージ6世の死後は、娘のエリザベス2世と同名で混乱するのを避けるため、エリザベス王太后と呼ばれた。最後のインド皇后でもある。

グラームス卿クロード・ボーズ=ライアン(のちに第14代ストラスモア・アンド・キングホーン伯爵)と、セシリア・ニーナ・キャヴェンディッシュ=ベンティンクの間に、10人きょうだいの第九子、末の娘として生まれた。出生地ははっきり伝わっておらず、ウェストミンスターのベルグレイヴ・マンションズとも、病院へ向かう途中の救急馬車の中ともいわれる。1904年に父が伯爵位を継いだため、称号はオナラブルからレディに変わった。幼少期の大半を、ハートフォードシャーの屋敷と、スコットランドのグラームス城で過ごし、8歳まで女性家庭教師に教わった。屋外の遊びやポニー、犬が好きな少女だった。ロンドンの学校に通うと、古代ギリシアの著作から取った二つの単語を題材にした作文で教師を驚かせたとされる。得意な科目は文学と聖書学で、13歳で資格試験に優等で合格した。

14歳の誕生日の1914年8月4日、イギリスはドイツに宣戦して第一次世界大戦に入った。兄が4人従軍し、士官だった兄ファーガスは1915年のルーの戦いで戦死した。もう一人の兄マイケルは1917年に行方不明になったのち、負傷して捕虜になっていることが伝えられ、終戦まで収容所にいた。グラームス城が負傷兵の療養所として接収されると、彼女も看護を手伝い、1916年に城が大火に遭ったときには、所蔵品を救い出すために目覚ましい働きをした。

ヨーク公アルバート王子は、ジョージ5世の次男で、家族からはバーティと呼ばれていた。彼が最初に求婚したのは1921年だったが、彼女は断り、王子は深く失望した。母のメアリー王妃がグラームス城を訪ね、「バーティを幸福にできる唯一の女性」と確信しても、彼女はうなずかなかった。1922年にもう一度断ったあと、王族との結婚生活への不安を抱きつつ、1923年1月に求婚を受け入れた。1923年4月26日、二人はウェストミンスター寺院で結婚した。彼女は入り口から進むとき、第一次世界大戦の無名戦士の墓に手のブーケを捧げた。予定外のことで、戦没した兄ファーガスを偲んだものだった。現在は、花嫁が挙式の翌日に墓へブーケを捧げるのが慣例となっている。

吃音に悩むアルバートが公式の場での演説を苦手としていたため、彼女は1925年10月から、オーストラリア人のライオネル・ローグらの治療を夫に受けさせた。この出来事は、のちの映画『英国王のスピーチ』で描かれた。1926年に長女エリザベスが、1930年に次女マーガレット・ローズが生まれた。1936年に義父ジョージ5世が没し、兄のエドワード8世が即位したが、アメリカ人のウォリス・シンプソンとの結婚を望んで退位したため、夫がジョージ6世として即位し、彼女は王妃となった。第二次世界大戦の直前には夫とフランス、カナダ、アメリカを訪れた。戦争中は不屈の意志で国民の精神的支柱となり、ヒトラーに「ヨーロッパで最も危険な女性」と評された。1952年に夫が56歳で亡くなり、彼女は51歳で寡婦となった。晩年も人気を保ち、亡くなる数か月前まで公務をこなしたが、次女の死から7週間後の2002年3月30日、101歳で亡くなった。

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