伝記
シャマシュ・シュム・ウキンは、古代メソポタミアのバビロンの王である。在位は紀元前668年から前648年とされる。アッシリア王エサルハドンの息子で、アッシリア王となった弟のアッシュルバニパルとともに王位に就いたが、即位後は長く弟との共同統治に甘んじ、前652年に反乱に踏み切った。しかし4年に及ぶ内戦の末に敗れて死亡したとされる。名はアッカド語で「シャマシュ神は後継者を立てり」の意味で。
エサルハドンの次男と推定され、兄の王太子がいたが、その人物シン・ナディン・アプリは前674年に急死した。後継者問題を先延ばしにすれば再び骨肉の争いになると危惧した父王は、自らが兄弟間の熾烈な継承戦争を勝ち抜いた経験から、すぐに新たな継承計画をつくり始めた。前672年5月、4番目の息子と目されるアッシュルバニパルがアッシリアの王位継承者に、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニアの王位継承者に指名された。アッシリアとバビロニアの王位継承権を分けるのはサルゴン朝の開闢以来異例のことで、エサルハドンの新機軸だった。通説では、アッシュルバニパルの母はアッシリア出身、シャマシュ・シュム・ウキンの母はバビロン出身とされ、この措置にも一定の正当性があったと考えられている。エサルハドンの作らせた条約は、アッシュルバニパルを上位に置いてシャマシュ・シュム・ウキンに忠誠を誓わせる一方、アッシュルバニパルが兄の管轄に介入しないことも明記しており、両者の関係には曖昧さが残った。
前669年末にエサルハドンが死去し、アッシュルバニパルがアッシリア王となった。翌年の春、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロンの王位に就いた。このとき、約20年前に祖父センナケリブがバビロンから奪ったマルドゥク神像が返還されており、これが即位に政治的・宗教的な正統性を与え、バビロン市民の信望も得たといわれる。サルゴン王家で、バビロニア王を継ぎながらアッシリア王になれなかったのは彼ただ一人である。
実際の支配は不安定だった。エサルハドンの碑文は彼に全バビロニアの支配権を与えるべきだと明示していたが、実効支配が及んだのはバビロンとその周辺の直轄市に限られた。ニップル、ウルク、ウルの総督や「海の国」の首長らはバビロン王を無視し、アッシュルバニパルを君主と見なした。アッシュルバニパルは自らの碑文で、自分がバビロンの支配を兄に与えたと記し、各地に密偵を置き、ボルシッパには常駐部隊と役人を置いた。シャマシュ・シュム・ウキンの命令は、アッシュルバニパルの確認と承認を経なければ実行できなかったという。それでも彼は政務に熱心で、シッパルの市壁を再建し、バビロニアの新年祭に参加し、ウルクのイシュタル神殿の土地を拡大するなど、諸神殿に寄進を行った。弟への書簡では「我が兄弟」と呼びかけ、自らを対等と見ていたと考えられるが、返信は残っていない。
反乱の動機を記した記録はないものの、全バビロニアの支配権が保障されなかったことは十分な動機になりうる。前650年代後半には敵意が増し、廷臣ザキルの書簡は、「海の国」の使者が王の面前でアッシュルバニパルを公然と批判し、王が怒りを示したことを伝える。しかし王とバビロンの総督ウバルは、使者に何の処置もとらなかった。やがて前652年に反乱を起こし、アッシリアに敵対する勢力をいくつも同調させたが、結果は悲惨だった。アッシュルバニパルによるバビロン包囲は2年に及び、都市は陥落した。シャマシュ・シュム・ウキンは前648年に没したが、死の正確な状況はわかっていない。
同じ年に亡くなった人物
該当人物はまだありません。
同じ地域に関係する人物
- Kidinnu (紀元前329)
- ミトラダテス3世 (紀元前54年没)
- メレアグロス (将軍) (紀元前323年没)
- バビロニアのディオゲネス (紀元前149)
- 小キュロス (紀元前401年没)