伝記
イディ・アミン・ダダ・ウミーは、1928年5月30日に生まれ、2003年8月16日に没したウガンダの軍人であり、政治家である。同国の第3代大統領を務めた。身長193センチメートルの巨漢で、東アフリカのボクシングのヘビー級王者になったこともある。1975年にはアフリカ統一機構の議長も務めた。
自伝や公式の経歴を残さなかったため、生まれた場所と日付ははっきりしない。イギリス植民地時代のウガンダで、1925年頃にコボコかカンパラで生まれたとする説が多い。マケレレ大学のフレッド・グウェデコによれば、父はウガンダ北西部の西ナイル地方のカクワ族出身のアンドレアス・ニャビレで、1910年にカトリックからイスラム教に改宗してアミン・ダダと改姓した。イディは父に捨てられ、母方の家庭で育てられた。母は、ブガンダ王室にも患者がいたというルグバラ族の伝統的な薬草療法家だったとされる。イスラーム学校でコーランを暗唱し、雑務を経て、1946年にイギリス植民地軍に炊事係として雇われた。その体格を生かして部隊内の体育大会で活躍して注目を集め、ボクシングでヘビー級の王者となったほか、白人ばかりのウガンダのラグビーチームで唯一の黒人選手として活躍し、植民地軍の中尉にまで昇進した。独立後はミルトン・オボテに協力して、ムテサ2世を排除し、ウガンダ軍の参謀総長となった。
1971年1月、オボテがイギリス連邦首脳会議のため外遊中に軍事クーデターで権力を握り、軍事独裁政権をつくった。オボテが左派的な政策をとったため、冷戦下で左派政権の排除を望む西側諸国から期待されており、イギリスやアメリカ、イスラエル、反共的なザイールのモブツとも友好的な関係を持った。しかし独裁化が進むと、約10万から50万人と推計される国民を大量に虐殺したとされ、「黒いヒトラー」と呼ばれるに至った。少数民族や宗教指導者、ジャーナリスト、官僚、裁判官、学生、外国人など、政策に異議を唱える人びとが次々に粛清された。アジア人追放事件では、事業や土地を自分の支持者に与えたが、杜撰な経営で産業は崩壊し、平均賃金は9割も減った。自分と同じカクワ族の出身者を重用し、これが8回ものクーデターを切り抜けた理由ともされる。政権の8年間には、密猟や森林伐採により、ゾウの75パーセント、サイの98パーセントが失われたという。
西側から批判されると姿勢を一転させ、1972年にイギリスと断交してイスラエルの軍事顧問を追放し、1973年にはアメリカ政府も距離を置いた。リビアのカダフィ大佐に接近し、1976年のエールフランス機ハイジャック事件では対応に失敗して批判を浴び、イスラエル軍のエンテベ空港奇襲作戦を招いた。1978年にタンザニアへ侵攻して失敗し、逆に首都カンパラまで攻め込まれた。1979年に失脚してリビアに逃れたが、のちにサウジアラビアへの亡命を許された。何度かの帰国の試みは失敗し、2003年8月16日、ジッダの病院で多臓器不全による合併症のため死去した。若い頃は貨幣経済に疎く、小切手を、書けばいくらでも使えるものと勘違いしたという逸話が伝わる。「人食い大統領」と呼ばれたが、実際には肉は鶏肉しか口にしなかったともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
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