伝記
アリヤ・イゼトベゴヴィッチは1925年8月8日、当時セルブ・クロアート・スロヴェーン王国の一部だったボスニア・ヘルツェゴビナ北部のボサンスキ・シャマツに生まれた。ボシュニャク人の活動家で、弁護士、作家、哲学者、政治家であり、2003年10月19日に没した。家は著名だったが没落した家系で、先祖はベオグラードのオスマン帝国の貴族だったが、セルビアの独立でボスニアに逃れたという。祖父アリヤはボサンスキ・シャマツの市長を務めた。父は会計士だったが1927年に破産を宣告され、一家はサラエヴォに移った。信心深い家庭に育ち、ムスリムとしての教養を身につけ、サラエヴォの法学校を卒業して、このころ青年ムスリム団に加わった。第二次世界大戦の間は、いかなる軍事組織にも加わらなかった。戦後の1946年に反共産主義活動の疑いで逮捕され、懲役3年を言い渡された。釈放後はサラエヴォ大学で法学の学位を取り、政治への関わりを続けた。
1970年、イスラームと国家、社会についての見解を述べた『イスラム宣言』を発表した。ユーゴスラビアの当局はこれをボスニアにシャリーア法を持ち込むものとみなして出版を禁じた。のちにセルビア人の民族主義者は、ボシュニャク人がボスニアにイランのようなイスラム国家を作ろうとしている証拠として、これを戦争の口実に使った。イゼトベゴヴィッチ自身はこうした見方を強く否定し、イギリスの著述家ノエル・マルコルムも、本書は全イスラム世界に向けた一般的な指針で、ボスニアには触れてもいないと述べ、民族主義者の主張を「誤ったプロパガンダ」とした。1993年にはキング・ファイサル国際賞のイスラーム奉仕部門を受けた。1983年4月には、ほかの20人のボシュニャク人活動家とともに、ムスリム民族主義に影響を受けた敵対活動などの容疑でサラエヴォの裁判所にかけられ、イランでの会議に参加したことも訴追されて、懲役14年を宣告された。判決はアムネスティ・インターナショナルなどの人権団体から強く非難された。翌月、上級裁判所は懲役を12年に減らした。1988年に共産主義による統治が揺らぐと恩赦で釈放され、約5年に及んだ獄中生活で健康を大きく損なっていた。
1989年に仲間とともに民主行動党を設立した。1990年の選挙で党は最多の33%を得た。大統領評議会の選挙で、ボシュニャク人の候補のうちフィクレト・アブディッチが44%で1位、イゼトベゴヴィッチは37%で2位となったが、アブディッチが身を引き、1990年にボスニア・ヘルツェゴビナの初代大統領に選ばれた。やがてクロアチアでの戦闘で民族間の緊張が高まり、権力分担の合意は崩れた。1991年2月には、「ボスニアの独立のために平和を犠牲にすることはいとわないが、平和のために独立を犠牲にすることはない」と述べた。1992年2月に独立を問う住民投票を行うと、セルビア人はボイコットしたが、投票率67%で99.4%が賛成した。議会は2月29日に独立を宣言し、4月7日に欧州連合とアメリカが承認した直後から、セルビア人勢力との戦闘が始まった。その後の約3年は、セルビア人勢力に包囲されたサラエヴォで過ごし、何もしない西側諸国を非難して、イスラム世界との結びつきに頼った。1996年まで大統領を務め、その後は2000年までボスニア・ヘルツェゴビナ大統領評議会の一員であった。
同じ年に亡くなった人物
- ロザリン・テューレック (2003年没)
- アリシア・ルルテ (2003年没)
- ホープ・ラング (2003年没)
- ジョルジオ・ガベール (2003年没)
- ニーナ・シモン (2003年没)
同じ地域に関係する人物
- フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ (1914年没)
- ゾフィー・ホテク (1914年没)
- マク・ディズダル (1971年没)
- Safvet beg Basagic (1934年没)
- エルンスト・フォン・マンスフェルト (1626年没)