伝記
エドワード・ワディ・サイードは、1935年11月1日に生まれ、2003年9月25日に没したパレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家である。主著『オリエンタリズム』でオリエンタリズムの理論を打ち立て、ポストコロニアル理論を確立した。パレスチナ問題について率直に発言する人物でもあった。
キリスト教徒のパレスチナ人として、エルサレムに生まれた。父はエジプトのカイロで事業を営んでいたが、サイードは幼年期の多くの時間を、エルサレムにあった叔母の家で過ごし、レバノンでも暮らした。アラビア語、英語、フランス語の入り混じる環境で育ち、三つの言語に堪能となった。14歳になるころにはカイロの学校に通っていた。この時期の生活は、自伝『遠い場所の記憶』に詳しい。やがてアメリカ合衆国へ移住し、学士号をプリンストン大学で、修士号と博士号をハーバード大学で取得した。
コロンビア大学では、英文学と比較文学の教授を、1963年から2003年までの40年間務めた。ハーバード大学、ジョンズ・ホプキンス大学、エール大学でも教えている。研究者としての出発点は、ジョセフ・コンラッドの研究である。のちに、オリエンタリズムや帝国主義論と関連づけながら、キップリング、フローベール、カミュ、ナイポール、ゲーテなどを論じた。ゲーテがハーフィズに感銘を受けて作った『西東詩集』を賞賛し、その題名は、のちに彼自身が運営に携わる楽団の名の由来にもなった。
1978年の『オリエンタリズム』で、彼は、西洋におけるアジアや中東への誤った、またはロマンチックに飾り立てられたイメージの長い伝統が、ヨーロッパやアメリカの植民地主義的、帝国主義的な野望を隠れて正当化するものとして働いてきたと主張した。同書では、アンクティル=デュペロン、ウィリアム・ジョーンズ、ルナン、ラマルティーヌ、リチャード・バートン、ネルヴァル、マルクスらの著作が批判的に検討されている。オリエントとオクシデントのいずれのイメージも不要と考えて批判を行い、論争を引き起こした。
パレスチナについては、イスラエル領や占領地域、そのほかの土地に住むパレスチナ人の権利を擁護した。長年パレスチナ民族評議会の一員であったが、1993年のオスロ合意には、両者の分裂を決定的にし、パレスチナ難民が元の土地へ帰る権利を軽視していると見て、強硬に反対し、ヤーセル・アラファートと決裂した。その代案として、アラブ人とユダヤ人が等しい権利を持つ新たな国を作るべきだとする「一国家解決」を主張した。『パレスチナ問題』(1979年)や『パレスチナとは何か』(1986年)などの著書があり、『ネイション』や『ガーディアン』などに寄稿し、ノーム・チョムスキーらとともにアメリカの外交政策を批判した。イスラエルの歴史家イラン・パッペは、彼の死を知り、闇と混乱の中から理性と倫理、良心の岸辺へ導いてくれる灯台だったと追悼した。
熟練したピアニストでもあり、『ネーション』に音楽批評を長年寄稿した。1999年には、親友でイスラエル人の音楽家ダニエル・バレンボイムとともに、ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団を作った。イスラエルとアラブ諸国の双方から、才能ある若い音楽家を毎年夏に集めるという試みで、二人は2002年度のアストゥリアス皇太子賞を授与された。晩年は白血病を患い、教壇に立つことはまれだった。2003年9月25日、長い闘病の末に、ニューヨークで67歳で亡くなった。同い年の大江健三郎を評価していたという。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・クレンナ (2003年没)
- レイチェル・コリー (2003年没)
- ウェンディ・ヒラー (2003年没)
- ピート・ダンケルト (2003年没)
- パウル・ヤンセン (2003年没)
同じ地域に関係する人物
- ガブリエラ・ミストラル (1957年没)
- ヴィルヘルム・シュタイニッツ (1900年没)
- ジョン・バーコール (2005年没)
- メイ・アーウィン (1938年没)
- Alexander Lodygin (1923年没)