伝記
ヤーセル・アラファートは、1929年8月に生まれ、2004年11月11日に没したパレスチナの指導者である。パレスチナ解放機構(PLO)の執行委員会議長を務め、パレスチナ自治政府の初代大統領となった。本名はムハンマド・アブドゥッ=ラウーフ・アル=クドゥワ・アル=フサイニーという。名のヤーセルは「静かな」「落ち着いた」などを意味するアラビア語の男性名で、通称はアブー・アンマールである。エルサレムのスンナ派イスラム教徒の名門フサイニー家に属する、裕福な織物商の家に、7人の子の5番目として生まれた。本人は1929年8月4日のエルサレム生まれと主張したが、同じ年の8月24日にカイロで生まれたとするエジプトの出生記録もあり、誕生日と出生地は論争の的になっている。
少年時代をカイロとエルサレムで過ごし、カイロ大学で工学を学んだ。学生時代にはパレスチナ学生連合に加わり、1952年から1956年まで議長を務めた。1956年のスエズ危機でエジプト軍に入り、第二次中東戦争に工兵大尉として従軍した。戦後はクウェートで技師として働きながら解放運動を続け、のちにPLOの主流派となるファタハを結成した。1963年にシリアに迎えられ、イスラエルに対する武装闘争を始めて、ファタハをパレスチナ解放運動の主流勢力に育てた。1969年にPLOの議長に就いた。ヨルダンに拠点を築いてイスラエルへの越境攻撃を行うと、一挙にアラブ・パレスチナの英雄となったが、PLOが「国家内国家」になってヨルダン政府と対立し、1970年9月にフセイン国王の軍の攻撃を受けた(ブラック・セプテンバー事件)。ヨルダンを追われた後はレバノンに移って武装闘争を続け、1974年のアラブ連盟首脳会議で、PLOは「パレスチナ唯一の代表」と認められた。同年には、国連総会で、非政府組織の代表としては初めて演説している。1983年にシリアのアサド大統領との不和から追われると、チュニジアのチュニスに本拠を移した。1988年11月にパレスチナの独立を宣言し、翌1989年4月にはパレスチナ中央評議会によって大統領に選ばれた。
1990年の湾岸戦争でイラクのサッダーム・フセインを支持して、湾岸産油国の援助を断たれ苦境に陥ったが、イスラエルとの対話を掲げる穏健派として復活をはかり、1993年のオスロ合意を成立させて、イツハク・ラビン首相と会見した。1994年にノーベル平和賞が贈られ、和平協定に基づいてパレスチナに戻り、1996年1月の選挙では88.2%の得票率で自治政府の初代大統領に当選した。しかしラビンの暗殺から和平は停滞し、2000年7月のキャンプ・デービッドの会談では、バラク首相が受け入れた米国の提案に対し、アラファートは言葉を濁して実現しなかった。同年9月、シャロンが神殿の丘の聖地に立ち入った事件をきっかけに、インティファーダが起きた。2001年からは、ラマッラーの議長府がイスラエル軍に包囲され、軟禁状態に置かれた。2003年3月にマフムード・アッバースを初代首相に任命したが、治安部隊の権限の引き渡しを拒んだため、9月に首相は辞任した。
2004年10月に体調を崩し、29日にフランスへ移送されたが、脳出血で昏睡に陥り、11月11日にパリ郊外のペルシー軍病院で死去した。遺体は国葬ののちラマッラーの議長府の敷地に埋葬された。死因をめぐっては毒殺の疑惑が出て、2012年に墓が掘り返された。スイスの調査団は遺体からポロニウム210を検出したと発表したが、フランスの調査団は自然死との結果を発表した。
同じ年に亡くなった人物
- セルジュ・レジアニ (2004年没)
- ジョニー・ラモーン (2004年没)
- Cem Karaca (2004年没)
- 鴇田正憲 (2004年没)
- Vivianna Torun Bulow-Hube (2004年没)
同じ地域に関係する人物
- ガートルード・スタイン (1946年没)
- ジョルジュ・ポリツェル (1942年没)
- ルネ・クレール (1981年没)
- グレース・エリオット (1823年没)
- レオ・マレ (1996年没)