伝記
聖ヘレナは、古代ローマ帝国の皇后(アウグスタ)で、コンスタンティヌス1世の母である。キリスト教会の聖人でもあり、カトリック教会と正教会の双方で聖人とされる。生年は246年から250年ごろで、330年8月18日に亡くなったとされる。カエサリアの司教エウセビオスは、彼女がパレスチナから戻ったとき約80歳だったと述べており、その旅は326年から328年のことと考えられるため、生まれは246年から249年ごろとみられている。
生まれた場所ははっきりせず、諸説ある。有力なのは、小アジアのビテュニア属州のドレパノンで、6世紀の歴史家プロコピオスがそれを伝え、この町は彼女の死後、息子によって彼女にちなみヘレノポリスと改名された。そうなると彼女はギリシア語を話す人だったことになる。ただし改名は単に彼女を称えるためだったという見方もあり、ほかにメソポタミアのカパルやエデッサ、セルビアのナイッスス、トリーアなどの説もあるが、確かな根拠は乏しい。出自は低い階層であることを、資料は一致して示している。4世紀の資料は、彼女が貧しい出だったと記し、ミラノ司教アンブロシウスは、はじめて彼女を「スタブラリア」、つまり旅館や馬屋の女と呼び、それを美徳として「善良な宿屋の女」と称えた。コンスタンティヌスの即位後に書かれた資料は、彼女の出自に触れないか、ぼかしている。異教徒の歴史家の中には、若いころ父の店で客をとらされたと書いた者もいる。ナイッススの旅館や酒場で働いていたところを、捕虜としてコンスタンティウス・クロルスの手に陥ったという話も伝わる。
コンスタンティウスとどこで出会ったかは分からない。歴史家バーンズは、彼がアウレリアヌス帝の下で、ゼノビアに対する遠征のために小アジアに駐屯していたときではないかと推測する。二人は同じ銀の腕輪をしていたという伝説もある。彼女は、妾とも正妻ともいわれる立場でコンスタンティウスとの間に、274年ごろにコンスタンティヌスを生んだ。293年、コンスタンティウスがマクシミアヌス帝の娘フラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚するため、政略により離婚させられた。再婚せず、あいまいな立場のまま過ごしたが、306年にコンスタンティウスが没し、息子が副帝に任じられたことで、皇后としての地位が追認された。313年ごろ、彼女はキリスト教に改宗したとされ、私財を投じて巡礼や慈善、教会の建立に尽くした。325年にはアウグスタの称号を受けた。
晩年には、シリア・パレスチナとエルサレムを巡礼した。古い伝承によれば、このとき、ゴルゴタで、キリストが磔にされた十字架を発見したという。息子の依頼でその地を訪れ、9月14日に探し出したとされ、同じ場所で聖釘も見つかったと伝わる。この十字架をめぐる伝説は、4世紀末にヨーロッパで起こったものである。ほかにも、イエスの脇腹を刺した槍を見つけた、三人の博士の遺骸を発見してコンスタンティノポリスに運び、ミラノ司教エウストルギウスの願いで贈った、聖母マリアが用いた飼い葉桶のまぐさをローマへ持ち帰った、といった逸話がある。彼女が改宗したきっかけを、聖シルウェステルが異教徒との論争で示した奇跡だとする話もある。また、彼女はブリタニアの王の娘だったという伝説もジェフリー・オブ・モンマスによって広まり、後に多くの教会が彼女に捧げられた。
同じ年に亡くなった人物
- Publilius Optatianus Porfyrius (330年(推定))
- 聖アキリウス (330年)
- バシリナ (330年代没)
- ティリダテス3世 (330年)
- フラウィア・ユリア・コンスタンティア (330年)
同じ地域に関係する人物
- プルシアス2世 (紀元前148)
- ニコメデス4世 (紀元前74年没)
- Nicomedes III of Bithynia (紀元前160)
- コンスタンティヌス1世 (337年没)
- 聖ゲオルギオス (303年没)