伝記
マルクス・アティリウス・レグルスは、共和政ローマ時代の政治家・将軍である。紀元前267年と256年に執政官を務め、第一次ポエニ戦争でカルタゴに捕らわれた末、約束を守って死に赴いた人物としてローマで語り継がれた。生年は不明で、おそらく紀元前307年以前の生まれとされ、没年は紀元前250年とされる。父は同名で紀元前294年に執政官となり凱旋式を行った人物である。一族は古いカンパニアの家系とされるが、カラブリア出身とする説もあり、確かではない。妻はマルキアといい、少なくとも二人の息子と一人の娘がいた。息子のマルクスは紀元前227年、ガイウスは紀元前225年に執政官となったが、ガイウスはガリア人とのテラモンの戦いで戦死した。兄弟またはいとことされるガイウス・アティリウス・レグルス・セッラヌスも、紀元前257年と250年に執政官を務めた。
最初の執政官就任は紀元前267年である。タレントゥム攻略の後、ローマは南イタリアの征服を仕上げつつあり、レグルスはサレント半島のサレントゥム人に勝利して、ギリシアに最も近い港ブルンディシウムを攻略した。この功により、同僚のルキウス・ユリウス・リボとともに凱旋式の栄誉を受けた。
二度目は紀元前256年、任期中に没した執政官クィントゥス・カエディキウスの補充としてである。第一次ポエニ戦争のさなか、ローマ艦隊を率いてシキリア北岸のテュンダリスの沖に停泊した。十隻の先遣隊でカルタゴの艦隊を攻めたところ包囲されて九隻を沈められたが、辛うじて逃れた旗艦に本隊が合流して反撃し、十隻を捕獲、八隻を沈めたという。その後、同僚のルキウス・マンリウス・ウルソとともにアフリカ上陸を準備し、330隻の大艦隊でエクノモス岬の戦いに勝って、カルタゴ軍を退かせた。両執政官は四個軍団を率いてカルタゴ近郊に上陸し、レグルスはアスピスの戦い、アディスの戦いと緒戦に勝った。ローマ側は軍の一部を減らしてウルソを帰国させ、レグルスは残って冬を越した。後任を求める彼の願いは元老院に容れられなかったという。
紀元前255年、レグルスはチュニスを押さえてカルタゴを直接脅かした。和平交渉も行われたが、シキリアとサルディニアの放棄、戦費の支払い、毎年の貢納、捕虜の身代金なしの返還、海軍の制限などを求める過酷な条件に、カルタゴは抵抗を選んだ。カルタゴはスパルタ人の将軍クサンティッポスを雇い、市民を動員した。クサンティッポスは戦象と騎兵を用いてレグルスの軍をチュニスの戦いで壊滅させ、レグルスは捕虜となった。ポリュビオスは、敗れた者に容赦しなかった彼の態度が自らに返ってきたと指摘し、シケリアのディオドロスも似た見方を示している。
のちの伝承では、レグルスは和平か捕虜交換を実現するため、戻る約束で仮釈放されてローマへ送られた。ところが元老院で徹底抗戦を呼びかけ、捕虜を返すことを禁じる動議を出した。親族が引き留めるなか、約束を破るよりも戻って拷問で死ぬことを選び、カルタゴへ帰ったという。釘を打ち込んだ桶に入れられ、不眠の拷問の末に殺されたとの説もある。この挿話の時期は定かではない。キケロはこれを美徳の手本として称え、後世の史家は、妻マルキアが夫の死を知り、カルタゴ人の捕虜を同じように拷問死させたと伝える。ヴァレリウス・マクシムスは、この話を第三次ポエニ戦争でのカルタゴ破壊の正当化にも用いた。彼の逸話は、ジュリオ・ロマーノ、サルヴァトル・ローザ、ダヴィッド、ターナーらの絵画の題材にもなった。
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